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倉内均のエッセイ 第81回〜第90回

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●第81回 ATP若手育成プロジェクト
●第82回 『二つの祖国で~日系陸軍情報部』
●第83回 お帰りなさい、唐十郎
●第84回 朝日賞と大佛次郎賞
●第85回 エル・グレコ
●第86回 市川新一脚本賞
●第87回 「組織力」ドキュメンタリー
●第88回 海外展開
●第89回 4K映像
●第90回  テレビの原点




【第81回】ATP若手育成プロジェクト

いま全日本テレビ番組製作社連盟(ATP)では、若手育成プロジェクトが進行中だ。これは、ATP に加盟する製作会社に所属する35歳以下の若手プロデューサー、ディレクターから企画を公募し、採択された企画に ATP が制作費の一部を助成し、テイ・ジョイの映画館で上映し、ネットでも配信するというものである。
若い制作者にとって現在のテレビ編成で自分の企画を実現するのは難しい。民放にあっては視聴率が重要視され、NHK にあっては公共放送としての編成方針に沿った企画が第一に求められるからだ。そうした編成方針のなかで番組を作るには熟練が必要だ。
しかし、若い制作者だからこそ発想する企画はあるはずだ。破天荒かもしれないし、荒削りで強い思い込みだけの企画かもしれない。そのなかにいまのテレビでは見ることができない爆発力を秘めた企画はきっとあるはずだ。それが今回のプロジェクトを始める動機となった。
若さゆえに持つ感性や好奇心、矛盾にたいする疑問や怒りは新しい表現を生む。かつてアジアの国々の急速な経済成長にともなって、農村からおびただしい数の人口が流入して都市がスラム化するようになったとき、社会の矛盾に正面から向き合った作品で、新しい潮流を生みだしたのも20代30代の映画作家たちだった。
ATP の若手制作者たちは、どんな風にして社会と向き合っているのだろう。
そもそも企画とはきわめて個的なものだと思う。個人の記憶や体験が目の前で起きているさまざまな現実と強く絡み合うとき突如として企画が生まれる。
だから現実社会に強力な受信アンテナを張り巡らしていないと「個」は生まれないとわたしは考える。
そして、いったん企画が採択されるや、企画は「個」から「衆」のものとして世の中に出て行くことになる。今回劇場での上映ともなるとなおさら興行性や商品性が求められる。制作、上映、配信と組織的な過程を経るなかではそこに関わる多くのひとたちの経験や思想にもまれ鍛えられていく。それでもなお「個」でありつづける制作者の登場を待ちたい。

(2012年11月)



【第82回】『二つの祖国で~日系陸軍諜報部』

すずきじゅんいち監督のドキュメンタリー映画『二つの祖国で・日系陸軍情報部』を観た。『東洋宮武が覗いた時代』、『442 日系部隊アメリカ史上最強の陸軍』につづく、第二次大戦をはさんだ日系アメリカ人の歴史を描く3部作の掉尾を飾る作品である。
本作は、太平洋戦争でアメリカ陸軍の秘密情報機関 MIS(ミリタリーインテリジェンスサービス)の中心メンバーとして組織された日系二世部隊の元兵士たちの証言を軸にしたドキュメンタリーである。
日本人移民の子供としてハワイで生まれ、アメリカ人として育ったことで「二つの祖国」をもつかれら二世は、米国軍人として戦中は南太平洋さらに沖縄で日本軍と戦い戦後は GHQ の一員として占領政策の先頭に立った。アメリカでは日本人として差別され、日本人からはアメリカ人として敵視されながら、戦争の勝利国と敗戦国の二つの祖国の間で翻弄されてかれらは生きた。
同じ父祖をもつ日本人と戦場で向き合い、殺し合い、そして終戦直後、通訳としてヒロシマに赴いて原爆の地獄絵図をつぶさに目にし、また焦土と化した東京で飢えたこどもたちに接したときのかれらの心中は、わたしの想像などおよびもつかない。
かれらの多くはいま80歳前後になっている。ときおり日本語のフレーズを交え、ときに涙ながら語る体験は、60数年以上の歳月を経てなお、いま起こっているかのような生々しい語り口で、かれらの体験がいかなるものだったかを思わせる。映画として考えれば、手の込んだ手法を拝し、淡々とインタビューを重ねていくシンプルな構成が成功していると思った。
わたしは30年ほど前にハワイの日系移民を取りあげた番組に携わっている。明治の初め頃に始まったハワイ移民はサトウキビ労働者として渡った。一日10時間以上の重労働の上に低賃金。掘建て小屋のような粗末な家で暮らした。当時、ヨーロッパや中国、フィリピンからの移民もあったが、日本からの移民は最下層の地位にあった。
しかし一世たちは極貧のなかでも、子供の教育だけは大事にした。子供にだけは高等教育の機会を与えようとした。だから頑張ったのだろう、こんな歌も残っていた。

ハワイ、ハワイと夢見てきたが
流す涙はキビの中
行こか メリケン 帰ろか 日本
今日のホレホレ 辛くはないよ
昨日届いた 里便り
横浜出るときゃ 涙ででたが
今は子もある 孫もある

『ホレホレ節』といわれる、移民たちが作った労働歌である。不思議と明るい曲調がかえってきびしい労働を思わせた。
そうして高等教育を受けた二世たちが高校や大学へ進む頃、真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争が勃発、かれらの多くがアメリカへの忠誠を示す証として進んでアメリカ軍の兵士となった。かれら日系移民二世部隊、世に言う「442部隊」の誕生である。この部隊の活躍ぶりはいまではよく知られるところである。(すずきじゅんいち監督の前作は、わたしは観ていないが、この部隊を取りあげた作品)
442部隊はヨーロッパに送り込まれ、英米連合の白人部隊が2ヶ月かけても攻略できなかったイタリア戦線のドイツ軍陣地を、わずか一週間で落とした。その時の合言葉は「Go for broke!(当たって砕けろ)」。
戦争が終わり、かれらは英雄として帰国する。死傷率300%死傷者9000人を越える、おびただしい犠牲を払っての凱旋だった。
442部隊が戦後に果たした最も大きな役割は、それまで差別の対象で地位も低かった日系人にアメリカ社会での地位向上をもたらしたことだったかもしれない。命を引き換えにしてはじめて得た代償だったと言える。そのなかから、442部隊だったダニエル・イノウエやスパーク・マツナガは連邦議員となり、ジョージ・アリヨシはハワイ州知事となった。一世の親が食うや食わずで教育の機会を与えた賜物だった。
その番組で、オアフ島で一人暮らしをする80歳くらいの日系一世の女性を取材した。
彼女は二人の息子を戦争で亡くしている。息子たちの思い出は、部屋中に彼らの写真が飾られていることからも、いまも強く彼女のなかにある。取材が終わっての去り際、彼女はカメラに向かって言った。「100まで生きるけん」。
『二つの祖国で~日系陸軍情報部』 は、日系二世たちの戦争体験を通して、かれらのなかにある日本人の心を浮かび上がらせる。3.11の震災と復興の様子をハワイの地で聞きながら、粛々と困難に立ち向かっている被災者の姿に自らのアイデンティティを重ねている。それは「大和魂(Japanese spirit)」という言葉だった。
この映画は、真珠湾攻撃から71年目の今年12月8日に公開される。銀座シネパトスでは、すずきじゅんいち監督の3部作を一挙上映するという

(2012年12月)



【第83回】お帰りなさい、唐十郎

年もおしつまったある日、劇団唐組のアトリエで唐十郎さんを囲む小さな会があった。
唐さんは5月に転倒し頭を打って入院、11月に退院し現在はリハビリ中である。退院と回復を祝って集まった仲間は、元気でにこやかな笑顔で「帰ってきた」唐さんに大いに安心したのだった。
考えてみると、2012 年のわたしの芝居(鑑賞)は唐さんに始まり唐さんに終わったといえる。年明け早々の、唐さんが出演した『下谷万年町物語』(唐十郎作、蜷川幸雄演出/シアターコクーン)では、主演の宮沢りえと藤原竜也が縦横に舞台を駆けめぐるなか、真っ白いスーツに身を包んだ唐さんが舞台前面に作られた池に飛び込み水中に潜り込んで、観客のどぎもを抜いて存在感を示した。31年ぶりの再演、100人の男娼が登場する上演時間3時間半のあの大作である。
5月の唐組定期公演『海星~ひとで』が終わって倒れられたことから、秋公演は1992 年初演の『虹屋敷』の再々演となり、劇団の番頭格、久保井研が演出した。
いつもの唐十郎演出とは趣を異にした、からまった細部をひとつひとつ解きほぐしていって、再度物語を紡ぎなおすような、ていねいな演出だった。
作、演出、出演が唐十郎という唐組公演で、唐さんがいない芝居は初めてだった。久保井演出は確かにもうひとつの「唐ワールド」を示したのだけれど、唐十郎の「不在」を意識すればするほど、唐さんが立ち上がってくるという不思議な体験だった。中心から離れれば離れるほど近づいてくる相反性、まるで宮澤賢治の『青森挽歌』みたいだと観ながら感じた。
そして、11 月終わりの新宿梁山泊『紙芝居~アメ横のドロップ売り』(金守珍演出/ザ・スズナリ)は、唐さんの書き下ろし新作だった。戦後直後の上野アメ横を舞台に紙芝居の幻の一枚をめぐって、アメ横のガード下に出没する人間たちが猥雑なエネルギーを発散し、闇市の時代を生き生きと写し出す。いつもながらの映像的でダイナミックな金演出だが、紙芝居屋のソースせんべいのソースがモチーフとして強調されるにつけ、わたしのなかではここにいない唐さんを強く思わないわけにはいかなかった。
この半年間、唐さんは私たちの前にいなかった。しかし、いやだからこそこれまでにもまして唐十郎が現れつづけた一年だった。
会の終わり、参加者たちがひと言ずつ唐さんにメッセージを送った。わたしは、唐さんが出演した『王様の家』(BS 朝日)が、今年の ATP 賞ドラマ部門での最優秀賞を受賞したことを報告し、「いないと思ったらいた」唐さんが一日も早く舞台に帰ってくることを願った。

(2013年1月)



【第84回】朝日賞と大佛次郎賞

1月31日、帝国ホテルで開かれた朝日賞の贈呈式に出席した。2012年度朝日賞を受賞した唐十郎さんに招待していただいた。
唐さんの授賞理由は1963年の状況劇場結成以来、半世紀にわたって紅テントにによる独創的な芝居公演をつづけてきたことだ。
受賞スピーチの段になって、けがからのリハビリ中の唐さんとともに登壇した息子の大鶴義丹さんが代読、受賞の知らせは回復途上での大きな光だったと述べた。そして、これからも電脳空間ではなかった、かつての都会を巡るような芝居を作りつづけていきたいと語った。
現在も毎年春と秋に公演をつづけている紅テントの芝居は、単に50年の時間的な継続だけではない。テントという劇場空間と唐十郎の芝居とは切り離すことができない一体のものとする「原点」にたえず立ち返ろうとする、その意思の継続であり、授賞はそのことへの評価であり、わたしたちに向けられたメッセージである。

この日の式典は、朝日賞とともに大佛次郎賞、大佛次郎論壇賞、朝日スポーツ賞の贈呈式でもあった。それぞれの受賞者のスピーチは人間味に溢れた、非常におもしろいものだった。
唐さんとともに朝日賞を受賞したのは電子工学者の松波弘之さん。「シリコンカーバイド」という半導体の研究は地下鉄銀座線に実用化され、電力の大幅な省力化に役立っているとのことだった。また人工光合成の研究で受賞した構造生物化学者の神谷信夫さんと植物生理学者の沈建仁さんは、地球上に無限にある水と太陽光から水素燃料などを作りだす可能性に道を開いたとの評価だった。
専門的なことはわたしには理解できないが、受賞スピーチはとても示唆的だった。それは、他人がやろうとしない、成功するかどうか半信半疑の研究に手をつけ、20年以上の長い時間をかけての成果ということだった。ここでも意思の継続ということを考えさせられた。
小説『母の遺産 新聞小説』で大佛次郎賞を受賞した作家の水村美苗さんは、自分では納得がいかない作品であるとしながら、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』やスタンダール、夏目漱石の『明暗』がそうだったように、同時代に生きる人間が同時代に書かれた作品を、必ずしもよい小説と判断できるとは限らないとし、後世になって評価されることが多い。小説への賞とは微妙なものだと語った。
大佛次郎論壇賞は『原発のコスト —エネルギー転換への視点』(岩波新書)を書いた大島堅一さん。低コストを理由に原発を推進してきた戦後のエネルギー政策を検証、実際の発電コストは1キロワットあたり10.25円と他の電力源より割高なことを示し、最大のコストはいまもなお国民が大きな負担を強いられている原発被害であると語った。
そして最後の朝日スポーツ賞に登場したのは、世界初の13連覇を成し遂げ、いま14連覇に向けてがんばるレスリングの吉田沙保里さんだった。いじめや体罰が連日マスコミを賑わせているいま、吉田さんは自ら霊長類最強の女と笑いを誘いながら、体調が悪くても、へまをしたときも、どん底に落ちそうになったときも、ひたすら走りつづけてきたと語った。

贈呈式は2時間ほどだったが、大きな刺激を受けた時間だった。受賞したどの作品や研究も時代を映すものだったし、ジャンルや世代を超えてメッセージを発するものだった。ああ、これを学校の授業などに中継したらおもしろいのに、と思った。

(2013年2月)



【第85回】エル・グレコ

エル・グレコ展を見た。51点を世界中から集めたこの回顧展の宣伝チラシ一枚を手に金曜の夜に上野の美術館に行った。これまでエル・グレコの絵を肉眼で見たことがなかったし、16~17世紀ヨーロッパの宗教画などキリスト教に無知なわたしにとっては遠いものだった。ただ、「一度見上げたら、忘れられない。」というチラシのコピーに惹かれて出かけていった。
見ていくうちにだんだん引き込まれていった。『受胎告知』など、目の前にいる人物と天使やキリストなどの「見えないもの」とが一枚の絵のなかでドラマチックに共存する、そうした絵にはとくに心ときめいた。ビジュアル表現をする作家の「見る」という行為は、たとえば「写実」といわれるものであっても、いまいる現実世界のなかに非現実な世界
や心象を見ぬき、描きだすということにほかならないと教えてくれる。
映像の世界では古典的となった、現実の登場人物とその心のなかで思い浮かべる別の人物や時代が同時に存在するといった超現実的な表現法がある。昨年公開された韓国映画『サニー』で40代の女性主人公が初恋に破れたかつての自分にそっと寄り添って慰めるというシーンがあり、わたしは内心拍手を送った。実際、わたしも好んでそうした手法をとることが多く、映画『佐賀のがばいばあちゃん』でも現在の主人公が孤独だったこども時代の自分のそばに現れ会話するというシーンをつくった。
話がそれてしまった。エル・グレコに戻そう。
『無原罪のお宿り』と名づけられた、タテ3メートルを越す縦長の大作が最後に控えていた。まさしくコピー通り「見上げる」ものだった。無数に並ぶ頭蓋の群れから飛びだしてきたような一羽の鳩が光を放ち、その光に照らされた聖母マリアが縦に大きく引き延ばされ、周りを天使たちが囲んでいる。頭上からわたし目がけて覆いかぶさってく
るような有無を言わせぬ圧迫感を感じ、その場から動けなくなるほどの迫力だった。
エル・グレコはなにを見ようとしたのだろうか。画家自身の目の高さは地上にあり、手前に野の花が咲き、近景に川が流れ、遠景には山がそびえ雲もかかっている。そこから天に向かって一気にマリアが立ち上がり、その頭上に光が輝いている。グレコも見上げて描いているのである。
現代のわたしたちは古今東西の宗教画や宗教的彫刻を美術品として鑑賞する。日本においても故西村公朝師が語られた通り、明治以来政府は仏像などの宝物を文化財として保護し博物館に収蔵し鑑賞の対象としてきた。もはや祈りの対象ではなくなっている。
エル・グレコを見て思うのは、ひとりの芸術家である前に現実の向こう側にある大きな力への祈りの気持ちをもち、畏れやいましめ、そして救いの場所にいつもいるということだ

(2013年3月)



【第86回】市川森一脚本賞

一昨年急逝された脚本家、市川森一さんの功績をたたえ、ドラマ界の次代を担う新進脚本家を顕彰する脚本賞が創設された。
4月22日、その第一回の授賞式が行われた。栄えある第一回の受賞者には大島里美さんが選ばれた。
市川森一脚本賞の選出に、わたしは選考委員の一人として関わった。昨年放送されたドラマのなかから六編のオリジナル脚本が候補作となり、選考委員会では真剣な議論を尽くした。受賞した大島里美さんの作品は「恋するハエ女」(NHK 名古屋制作)である。
授賞理由として次のコメントが発表された。「大島さんの作品には、夢や異空間にはせる想像力や、チャレンジ性があり、次代を背負って活躍することが期待できる、と評価されました。」
以下はわたしの選評である。
「脚本家とドラマの構想を練っていて、あるとき突然に「出来た!」と叫ぶ瞬間がある。暗闇を彷徨ったあげくにようやく光と遭遇する瞬間といってよい。それはドラマ作りの醍醐味である。
今回、私はその「出来た」を探しながら対象作六編の脚本を読んだ。オリジナル脚本ならなおさらに、ドラマの作り手たちは何をもって出来たと叫んだのか、それを読み解こうと考えた。
大島里見氏の「恋するハエ女」はコメディ仕立てにしたことで「出来た」のだと思った。これでドラマがカラフルになった。主人公の若い女性教師が政変に巻き込まれるなか、実はゲイであることがわかった総理の滑稽さや名声ある教育者である主人公の両親のそれぞれの不倫発覚騒ぎをドタバタ調で描く。「権威」を笑うばかりか、震災後この国の流行語となった「家族の絆」の虚妄性さえ衝こうとする。コメディ仕立てでなら許される毒(社会風刺)を盛り込んだといえる。また、異なる場所でメールを交わす人物同士がいつしか同一セットのなかにいるという演劇的な趣向があるかと思えば、フランスやイタリア、スペインの女性たちとの遍歴ぶりをスタジオバラエティ風に繰り広げたりする。オモチャ箱をひっくり返して並べたような構成で、この先どこへ連れて行かれるのかわからない意外性ある展開もおもしろかった。私は本作をいちばんに推した。テレビドラマが「わかりやすさ」という命題で作られているいま、今回の六編もその流れのなかにある。しかし、人間は決してわかりやすいものではない。人間のもつ不可解さこそドラマ作家が向き合うべきものなのだ。いま一度、市川森一の仕事を思いたい。」
授賞式のあとのパーティで、わたしは始めてお目にかかる大島さんにお祝いをし、ぜひ一緒に仕事しましょう、と言った。

 
(2013年5月)



【第87回】「組織力」ドキュメンタリー

第39回放送文化基金賞の贈呈式に、ATPを代表して出席した。
ドキュメンタリー、ドラマ、エンターテインメントのテレビ番組の各部門とラジオ番組や個人・グループ部門でのこの1年間の業績にたいする表彰式である。
ドキュメンタリー部門では「NHK スペシャル『メルトダウン File.03 原子炉“冷却”の死角』」、ドラマ部門では『リーガル・ハイ』(フジテレビ、共同テレビ)、エンターテインメント部門で「NHK スペシャル『釜石の“奇跡”いのちを守る特別授業』」が本賞を受賞した。
ドキュメンタリー部門では本賞以下優秀賞、番組賞を受賞した5本がすべて NHK自ら制作した番組だった。本賞の『メルトダウン』をふくめ「N スペ」が4本、「ETV 特集」が1本と NHK 番組が独占したことに、わたしはショックを受け、考えさせられた。
民放局や製作会社の制作したドキュメンタリーが受賞できなかったという理由はどこにあるのだろう。もちろん、今年はたまたまの結果と考えることはできる。昨年はATP加盟社であるプロダクション・エイシアが制作した「NHK スペシャル『クニ子おばばと不思議の森』」が優秀賞を受賞しているのだから。
わたしが考えたのは、NHK とわたしたちとの間にある制作環境のちがいといったことだ。『メルトダウン』や同じ「N スペ」の『東日本大震災 追跡 復興予算19兆円』は、国家的なテーマということもあってか、ディレクターと記者がそれぞれ数名、さらに複数のプロデューサー群からなる10数名の演出スタッフからなる大型プロジェクトで制作されている。まさに NHK ならではの組織力が発揮され、多角的・多元的な取材と徹底した検証で構成されていることに圧倒される。ここには、ひとりのドキュメンタリストがこつこつ足で稼ぎ、執拗に対象に迫ろうとする“個人力”ドキュメンタリーの概念はない。強力なリーダーシップをもって総合力で相手に向き合い、組織対組織のぶつかりあいから生まれる「力(ちから)」を感じさせる。“組織力ドキュメンタリー”といっていいかもしれない。
一方で、番組賞を受賞した「N スペ『世界初撮影!深海の超巨大イカ』」は、潜航回数100回、潜航時間400時間の末についにとらえたダイオウイカの姿を美しく見せた番組である。聞けば、ひとりのディレクターが 10 年間追いつづけたという。
「うーん、やっぱり、NHK の組織の力だ」、と思わないわけにはいかない。
わたしたち製作会社がすぐれたドキュメンタリーを生みだすためには何を強みとするのか、どんな制作環境が必要なのか、考えている

(2013年7月)



【第88回】海外展開

アマゾンラテルナではいま、シンガポールで放送される番組を準備中だ。
東京の若者の間で人気のファッションやサブカルチャーの情報を直接、生放送で現地に送るというものである。
この番組は、平成23年度の総務省の補正予算の助成を受け、今年2月にシンガポールで開局したJFCTV(J FOOD&CULTURE TV)との共同製作で制作される。
日本政府もようやく国策としての映像コンテンツの海外展開の重要性を認識したといえる。
日本のテレビ番組の海外展開は長い間低迷してきた。とりわけアジアにおいては販売価格が安いことから、現地放送でのローカライズのための翻訳作業や権利処理コストに見合わないという理由で積極的ではなかったためである。
実際、一昨年、わたしは紹介を得て在東京のベトナム大使館に赴き、文化担当の書記官にわたしたちがもっている過去の番組をベトナムの国営テレビで放送してもらうべく仲介を依頼したことがあった。そのとき、その担当官は即座に「これは有料ですか、それとも無料で提供していただけるものですか」と言った。つづけて「韓国は無料です」と釘をさされた経験がある。
日本のテレビ番組輸出額は年間60億円(2010年)、これは韓国の三分の一の額である。AV(音響・映像)分野の輸出額で見れば、2001年に韓国を上回っていた日本は(ちなみに『冬のソナタ』が日本で放送されたのがこの年である)、2004年に並ばれて以降逆転に推移し、2007年には日本は1.2億ドル、韓国2.0億ドル。2011
年では日本0.9億ドルに対し韓国2.7億ドルといった状況である。
この10年韓国は国策としてテレビ番組のアジア進出に取り組んできた。ベトナム大使館の担当官が言うように国の補助によって無料かそれに近い値段で提供した。
韓国はドラマや情報番組を国内産業の海外輸出の先兵と位置づけ、番組に登場するファッションや化粧品、家電、自動車などの広告塔としての意味を持たせた。
ベトナムにおいては、それまで化粧品は資生堂やカネボウ、クルマはトヨタ、バイクはホンダというのが一般的で他国の追随を許さないほど日本の製品が市場を占めていた。
しかし、韓国ドラマや情報番組が圧倒的な量で放送されるにつれ、ベトナムの人々は韓国製のファッションや化粧品を買い求めるようになり、それを待っていたかのように家電やクルマが入っていき、ついには原子力技術といった重工業分野の韓国産業の本丸の進出にいたるのである。
ベトナム事情に詳しい早稲田大学の坪井義明教授にあるエピソードを伺ったことがある。日本のODAによって作られた新空港の乗客ロビーにあるテレビはもっぱらサムスンやLGで、空港そのものも韓国に作ってもらったと思う人々
が多いという。ベトナム社会で日本の影が薄くなっているという象徴的な話だ。

ベトナムは歴史的にも日本と縁があり、国民は親日的で、かつてNHKの『おしん』が放送され熱狂的な反響があったこともあり、日本のテレビ番組へのニーズは高いといわれる。
これまで、日本が番組輸出でふるわなかった理由は費用対効果の問題とされるが、果たしてそれだけだろうか。現地の見たいというニーズよりも、売りたい番組を優先させてきたのではなかったか。
いま、わたしたちがシンガポールで放送しようとしている番組のコンセプトはそこに基点をおこうと考えている


(2013年9月)



【第89回】4K映像

このところ4K 映像を見るチャンスが増えてきた。
東京国立博物館で開催中の特別展「京都」で展示されている「龍安寺石庭の四季」は、石庭を臨む部屋に据えられた4台の4K カメラで1年間にわたって撮影されたもので、ほぼ実寸大の幅16メートルのスクリーンに投射されている。
春のしだれ桜に始まって梅雨の雨、夏の光を受けての葉の輝き、そして紅葉をへて音もなく降りしきる雪景色といったふうに、石庭の築地塀の向こうに並ぶ木々の四季の変化を写し出している。
とりわけ高精細の4K ならではと思わせるのは、風に揺れる木の葉の微細な動きや降り落ちる雨のひと粒、雪のひとひらまでが精緻にとらえられているところだ。この展示を見る人は、あたかも自分が石庭に面して座っているような
感覚で、目の前で絶え間なく起こる四季の移ろいの一方で頑として動かない石庭の石のたたずまいに仏教的無常観さえ「体験」できるだろう。
4K のひとつの可能性は、こうした名所旧跡の風景や歴史的な建築物、海の向こうで行われているスポーツの試合やコンサートなどの中継に臨場感を覚えながら、時空を超えた人間の歴史や知恵や営為に込められた哲学を体験できることではないかと思った。

その1週間前、東京国際映画祭の会期中に行われた映像シンポジウムでは、アメリカ撮影監督協会(ASC)の元会長である撮影監督スティーブン・ポスター氏による講演と氏がシネマ・イオスシステムの4K カメラで撮影したカメラ
テストと短編映像の上映があった。
『ロッキーⅤ』やリドリー・スコット監督『誰かに見られてる』などの映画やテレビ映画、ドキュメンタリーの撮影監督を務めるポスター氏はいま4K による映画製作システムの開発に取り組んでいる。
この日は、「撮影監督の芸術性を具体化するための最新技術」と題して、4Kカメラによる撮影はパソコンとの組み合わせによって、現像所の作業を待たずに撮影現場での色彩調整が可能になるなどカメラマンが製作過程において主導
的な立場に立てること、そして軽量小型化する撮影機材によってスタッフ数も少なくて済むといった合理性からハリウッドの製作システムにインパクトを与えることができると語った。
講演のあと、ポスター氏にわたしはかねてからの疑問を投げた。4K カメラはフォーカス合わせが問題で、果たしてドキュメンタリーのような被写体の人間がたえず動くような状態での手持ちによる撮影の場合、フォーカスの問題は
どうなのかと尋ねた。
ポスター氏は、「これまでの大型4K カメラとちがって、たとえばイオスシステムのような機材ではそこは問題ない。実際、いまヴァン・クライバーンのドキュメンタリーを製作中なんだ。それを見てほしい」と答えてくれた。
堤幸彦監督の最新作『SPEC~結(クローズ)』でもこのシステムの特性を生かした撮影をしていると聞いた。
4K映像が、これまで見ることができなかった世界を体験させてくれるのか、そこにどんな哲学がひそんでいるのか、注目していきたい。

(2013年11月)



【第90回】テレビの原点
3月下旬、ATPが主催しての春の交歓会が開かれた。上川総務省副大臣、木田NHK理事、井上民放連会長の来賓挨拶につづいて、各局の編成局長のご挨拶があった。
このなかで、2ヶ月前に就任したばかりのTBSの津村編成局長は、率直にいまのテレビに対する危機感を訴えた。
現在のテレビは画一化していて、どこのチャンネルも同じことをやっている。これではテレビは魅力を失くし、テレビ離れが進んで誰も視なくなる。この現状を打ち破るのは、作り手の熱い思いしかない。自分たち編成も頑張るので、製作会社の作り手の良質な番組を作りたいという気持ちを結集したい、との主旨だった。
津村局長の発言は、TBSの新しい編成に向けての決意表明とわたしは受けとった。
期待をもって応えていきたいと思う。
ちょうどこの時、わたしは『ザ・ベストテンの作り方』という本を読んでいた。『ザ・ベストテン』は1978年から1989年にTBSで放送された音楽番組。本の著者は番組の美術デザイナーだった三原康博氏で、氏のインタビューとセットや模型の写真、図面やスケッチなどが収められていて、最高視聴率41.9%という超人気番組の秘密を美
術の面から解き明かしている。
同じ楽曲であってもセットは一回限りで消費する。惜しげもなく廃棄してしまうことで新しいアイデアを自分に課す。また週を重ねていくごとに曲の世界観を新たなセットで深化させていく発想や「これでどうだ」とアーティストに対して“勝負”を迫る意気込みなど、芸術家と職人の魂を併せ持つ三原氏の仕事ぶりはクリエイターのあり方を示して
いる。
『ザ・ベストテン』はきわめてテレビ的な番組だった。生放送の1時間は、歌手と、演出、美術、照明、カメラとがしのぎを削って競い合うような表現の場となっていて、そうした緊張関係こそが視聴率に現れたとのだ思う。また、あまりにも有名な、スタジオに来られないアーティストを移動中の新幹線やコンサート会場からの生中継で歌わせる趣向は、歌手のいまを映し出すドキュメンタリーとして制作陣はとらえていたに違いない。そして、自由で大胆な番組を生みだすには制作費も必要だったことがわかる。
テレビが魅力あるメディアとして生き残るために、テレビの原点に立ちかえり、固定的な編成予算や立場・ジャンルを超えた発想が求められている。


(2014年4月)
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