倉内均のエッセイ 第61回〜第70回
●第61回 アマゾンラテルナ誕生●第62回 アジアン・ハリウッド構想
●第63回 「日本のいちばん長い夏」
●第64回 『日本のいちばん長い夏』インタビュー
●第65回 『日本のいちばん長い夏』公開
●第66回 山元清多さん逝去
●第67回 映画『KG』完成
●第68回 2011年ODS事始め
●第69回 T・ジョイ博多オープン
●第70回 震災後の創造に向かう
【第61回】アマゾンラテルナ誕生
2010年4月1 日。(株)アマゾンラテルナが誕生した。
新会社発足の挨拶状にわたしはこう書いている。
「デジタル化の波は、人びとのメディアへの接触行動を変えるだけでなく、情報や娯楽の質をも変化させていくでしょう。新しいクリエイティブのあり方を模索する時です。2008年以来、事業パートナーとして提携してきた(株)アマゾンと(株)ラテルナは、このたび合併いたします。 私たちは映画(投資・製作・配給)、ドラマ、ドキュメンタリーのテレビ番組、ODS、配信と、あらゆる映像ジャンルのコンテンツ製作を推進し、放送と劇場の場で横断的に 事業を展開していきます。
森に降る雪や雨は、地中深く浸透し、見えない水となって流れ、多様な生物たちを生みだし、豊かな環境を作りだすといいます。
新生アマゾンラテルナも、デジタル社会で見えるものはもちろん、見えないものをしっかりと見据え、描きだし、豊かな社会に貢献する企業でありたいと考えています。
そして、皆様とともに歩んでいきたいと願っています。」
ティ・ジョイのグループ会社として製作事業のコラボレーションをしてきた両社がひとつになることの意味は大きく二つある。デジタル化に対応しての映画と放送でのマルチユース・コンテンツ製作における資金の効果的な確保。そして、グループが一体となって、製作から劇場までの距離をショートカットし、コンテンツ流通過程を合理化する「産地直送型」の事業モデルの創出である。
いま、わたしたちを取り巻く映像業界で求められるのは変革である。企業の広告モデルはマスに向けて物量にモノを言わせる従来型の戦略から、よりターゲットへの到達度を重視する方向に向かっている。そこでもデジタル技術の力が発揮されてマーケティング機能を果たそうとしている。デジタル化がこれまでのテレビ界の広告収入モデルを崩壊させていく象徴的な例だ。
放送での広告収入の縮減という状況はますます進んでいくだろう。
また、映画業界においても日本国内で完結するものには限界が見えている。民族固有の文化と風土に根ざしたローカルプロダクションを含んだ「ハリウッド」型の映画ビジネスに移行し、マーケットを海外に拡げていくのは必須である。アマゾンラテルナは今年新たな映画事業に着手、韓国、中国をはじめとする東アジアに向けた映画製作を始めていく。
この期に、行動を起こさない怠慢は許されない。さあ、汗をかこう。
(2010年4月)
【第62回】アジアン・ハリウッド構想
2010年4月6日。CJ Entertainment JAPAN(CJEJ)が設立された。
アマゾンラテルナと韓国最大手の映画会社 CJ Entertainment との日韓合弁による、映画の製作・投資・配給を主たる業務とする新会社の誕生である。
ティ・ジョイグループとCJグループが備えるプラットフォーム上で、東京を拠点にするアジアマーケットを視野に入れたコンテンツ・メーカーの誕生は、産業界や国境を越えたアジア企業初の本格的業務提携となる。
CJEJ の事業計画としては、初年度10本程度の CJ Entertainment 作品の配給に始まり,次年度以降は自社製作や製作委員会参加作品の日本映画を年間3〜5本、ハリウッド作品を含む海外共同製作作品を年間3〜5本、韓国映画5〜7本など、年間20本以上のラインアップを予定している。
これによって、2014年までの設立後5年以内に100億円の売り上げを目標とし、日本の配給会社では5位以内に入ることをめざしている。
わたしは、CJEJが発信するコンテンツは、いま日本を覆っている「パダダイス鎖国」 を打破する可能性があると考えている。国内だけで自己完結する内向きな志向性の日本市場に対応しているのが、いまの日本の映像コンテンツの現状である。国際標準を持とうとしない産業は「ガラパゴス化」するのは自明だ。
CJEJは、良質なコンテンツを韓国、そしてアジアに発信し、日本の製作会社として海外市場にコンテンツを売っていく際のハブとしての役割を担う。
デジタルがもつスピードと汎用性で、広くアジアの国々の観客に日本発信の映画を届け且つそれぞれの民族性、国民性を生かした映画を日本の観客に届けるという流 通の創出を成し遂げていきたい。すなわち、多様性に満ちたコンテンツ環境を作ること。それは、いまそこに携わる者の使命だと思う。
映画館のスクリーン数から言っても、汎アジアの製作・流通ネットワークの構築は、ハリウッドのそれに匹敵する。私たちは、アジアのメジャースタジオを意味する「アジア ン・ハリウッド」をめざす。
(2010年5月)
【第63回】「日本のいちばん長い夏」
NHKとアマゾンラテルナが制作費を分担して製作したドキュメンタリードラマ『日本 のいちばん長い夏』が完成した。
7月31日NHKハイビジョン特集での放送に引き続き、映画作品として8月7日新宿 バルト9、丸の内TOEI2ほかで全国公開される。
「日本のいちばん長い夏」は、昭和38年に「文藝春秋」誌上で行われた、太平洋戦争終結の舞台裏を明らかにする座談会の記録である。出席したのは、日本を代表する知識人や政治家・官僚を含む 28人の人々。終戦時、軍部や政府の中枢にいた人、外地で戦争の最前線にいた人、政治活動から獄中に入れられていた人、一庶民であった人など、様々な立場の人が一堂に会する、前代未聞の“大座談会”となった。
この座談会を企画し司会したのは、現在は昭和史研究家として知られる半藤一利 氏。
わたしはこの座談会を再現するにあたって、"文士劇"の趣向をとった。即ち、現代の著名な文化人に"俳優"として出演していただこうというものだ。
こんなキャストである(出演順)。
湯浅卓(国際弁護士)、中村伊知哉(慶応義塾大学教授)、青島健太(スポーツライ ター)、山本益博(料理評論家)、松平定知(アナウンサー)、富野由悠季(アニメ映画 監督)、林 望(作家)、鳥越俊太郎(ジャーナリスト)、立川らく朝(医師・落語家)、島 田雅彦(小説家)、田原総一朗(ジャーナリスト)、市川森一(脚本家)、江川達也(漫画 家)、デイヴィッド・ディヒーリ(ジャーナリスト)。
実在の人物である座談会出席者を演じる現代の文化人たち。俳優初体験とは思えない見応えあるリアリティを感じさせてくれている。かれらはいずれも「いま」という時代に向き合い、切り込み、発言する人たちだ。そこから生まれる緊張感やオピニオンリーダーとしての責任感が演技のなかに発露されている。わたしが作品を作るにあたって先ず心惹かれたのも、昭和38年の座談会出席者たちの時代に正面に向き合う真摯な姿勢だった。それと同質な姿勢が現代の出演者にも見ることができたように思う。
そしてわたしは、ごく自然に出席者たちと同世代の父のことを思った。わたしの父も軍隊経験者である。座談会出席者と同じように時代に正面から向き合った人生を送ったのかどうか、亡くなってだいぶ経った今では確かめようがないが、そのことも今回の作品のモチーフとなった。
マスコミリリース資料に、わたしは次の一文を寄せている。 「父の「声」を聞きたいと思った。私は父の戦争体験を知らない。聞かないうちに30年ほど前に父は亡くなっている。ここ数年来、父を考えることが多くなった。父はどん な思いで生きてきたのか、と。大正生まれの父たちの世代は、戦中はお国のため、戦後は会社のため、会社は日本復興のためと、結局は『日本』のために生きた。戦後の高度経済成長を支えたのも 「父たち」だったが、同時に経済価値を至上のものとする価値観を作ったのもかれらだ った。家庭を顧みる暇もなく働きつづけた割には報われない世代だったのではないか と思う。
座談会の再現にあたって“文士劇”と決めた。作家、ジャーナリスト、映画監督、評論家、大学教授といった方々が俳優として出演し、「父たち」の言葉を語る。
演技の経験は初めてという人が殆どだったが、圧倒的な存在感を示して見事だった。それはきっと“文士”の方々にも、父の「声」を聞きたいという気持ちがあるからにちがいないと思った。」
(2010年6月)
【第64回】『日本のいちばん長い夏』インタビュー
映画『日本のいちばん長い夏』の8月7日公開をまえに、映画文筆家の増當竜也氏 によるわたしへのインタビューがあった。以下、増當氏の記事の一部を引用する。
「●本作を企画した動機
私は昭和24年の生まれなのですが(劇中の“私”は昭和20年生まれに設定しています)、団塊の世代がそろそろ会社から卒業しようとしていく中、それまでは今のことばかり考えていたのが、少し前のことを振り返ってみたり、自分の父親のことを思い出すようになるんですね。少なくとも私はそうで、60歳に近づこうとするあたりから、妙に親父のことを考えるようになっていた。その中で、親父は一体どういう青春を過ごしたんだろうと。それは戦争だったわけです。でも親父はそのときの体験を息子や孫にまともに語ることもなく、逝ってしまった。そのことが私の心の中に、どこか欠落して いる感触としてずっとありました。
もうひとつ、東京オリンピックが開催された昭和39年(1964年)前後、ちょうど私らが中学生くらいから“高度経済成長”という言葉が取り沙汰されるようになっていったんですね。そしてその頃からずっと、つい最近まで日本は経済、つまりお金こそが一 番価値あるものとして突っ走ってきた。でも、ふっと気付くとこの40年から50年、経済価値だけを追い求めてきた我々は、ものすごく大事なものを失ってしまったのではな いか?
現に今、わけのわからない事件とかいっぱい起きていますよね。子供たちの犯罪とか親の子殺しや子の親殺しとか、そういうのは単に一時的な現象ではなく、我々が経済ばかりを追い求めてきたひずみみたいなものと関係あるのではないだろうか。また高度経済成長とは、かつての戦争を体験し、あの座談会に出席していた人 たちの世代が担い手になって進められていった。それこそ私の親父も、その尖兵とし て働いてきた......。
そういったふたつの想いと半藤一利さんの原作とが邂逅し、この映画が生まれた。
●現代文化人がかつての座談会の出席者を演じるというアイデア
かつて30年くらい前まで、文藝春秋主宰の“文士劇”というものが、毎年1回、昔の日劇で開催されていたんです。要は作家の人たちが『忠臣蔵』とかいろいろとお芝居をやるんですね。半藤さんも担当だったことがあるとおっしゃっていましたが、それが ふっと思い浮かんだのですよ。つまり、この映画を文士劇でやってみたらどうだろうと。
また現代の文化人の方々も、きっと父親と戦争という問題を多かれ少なかれ抱えているのではないかと思いました。みなさんジャンルこそ違えど、“今”というものに対して常に発言し続けてきている人たちですから、そこに父親が関わった戦争というものに対しても、なにがしかの想いがあってしかるべきだろうし、それが今の彼らの発言の立脚点として確実にあるだろうという仮説を立てたんです。
今回文化人のみなさんは、かつての座談会で発言されたものを台詞として発しながら芝居していくわけですが、たとえ脚本の台詞であっても、その一言一言に“今”に 対して発言している人たちの心の中に顕在しているものなどがリアリティとして確実に出てくるのではないか。そういう狙いもありました。
●『佐賀のがばいばあちゃん』から『日本のいちばん長い夏』へ
私は以前、島田洋七さん原作の『佐賀のがばいばあちゃん』を映画化しております。
あれも時代背景は高度経済成長が始まりつつある昭和30年代後半なんですね。高度経済成長を簡単に言ってしまうと大量生産、大量消費。まさに『佐賀のがばいばあちゃん』の「もったいない」とは対極にある風潮が始まった時期なんです。でも日本が高度経済成長に突き進んでいく中で、あのおばあちゃんは漬け物石みたいな存在で、ああいった生活信条を持ち続けながら生きていた。
その精神は、江戸以降ずっと昭和30年代までの脈々と受け継がれてきた日本人の精神というか、それががばいばあちゃんに代表されているのではないかと思うのですよ。その意味では彼女こそ最後の“江戸の人”だったのかもしれませんし、ではその 精神とは何かと言いますと、慎ましさであったり、先祖代々の生活のあり方を守ろうとする強固な意志ですよね。そういったものが高度経済成長の時期からなくなっていった。
その象徴が、私には東京オリンピックのように思えてならないのです。実は日本人が変わったのは昭和20年8月15日ではなく、昭和39年からではないか? その前年に戦争を振り返る座談会が行われたということも象徴的なことだと思うんです。あれがオリンピックの後に行われていたら、全然雰囲気は違っていたことでしょう。やはりあのときの出席者のみなさんも“江戸の人”だったと思うのですよ。
今年はNHK大河ドラマ『龍馬伝』が大ヒットしたりと、幕末に大きくスポットが当たっているというのも、どこかで日本人が失われた江戸の精神を求め始めているのではないでしょうか。
その意味でも我々が今年『日本のいちばん長い夏』を映画化し、公開するというのも、偶然とはいえ何か不思議なものを感じることがあるのです。」
(2010年7月)
【第65回】『日本のいちばん長い夏』公開
8月7日、『日本のいちばん長い夏』が公開される。
昨年9月の撮影から1年の時間を経て、いよいよ人びとの目に触れる。劇場では、観客の表情にじかに接することができる。お客さんの鑑賞行動のどの瞬間にもわたしは「しびれる」。チケットボックスで財布を開くのを目にする時のありがたさ、思い思いの期待感をもってシートに座った人びとから発せられる何とも言えない空気を感じる時の逃げ出したくなるほどの感覚、そして終映後ドアを出てくるひとりひとりに必死に満足度を探し求める自分がいる。それは映画製作者が味わう尊さであり醍醐味でもある。
この2ヶ月間、宣伝目的のマスコミ試写会が開かれ、のべ200名ほどのメディア関係者がこの映画を見ている。わたしの知り合いもそのなかにいて、メールで感想をいただいたりした。作品に対する批評のほかに、ご自分の父親や祖父の戦争体験を書いてくださっていて、これまでの作品への感想とは趣きが異なっていた。
とりわけ女性は、この映画の「親から子への戦争体験の継承」というテーマに真摯に向きあった方が多い。30〜50代の女性である。娘と父の関係は、息子のそれとはまた違って戦地に赴いた肉親への独特な思いがあるのかも知れない。あるいは子どもを産む女性にとって、次の世代に何を伝えて行くかというのはより切実なのだと言うひともいる。
この映画を見てくださるひとりひとりに身近な家族の物語として、また自分のこととして受けとめていただけるなら、作り手冥利に尽きることだ。
そして、65年前の戦争が遠い昔のことのように思っている若い世代にぜひ見てほしいと願ってやまない。
(2010年8月)
【第66回】山元清多さん逝去
9月12日、「ゲンさん」こと山元清多さんが亡くなられた。71歳だった。
昨年3月に肺がんの手術をしてから1年半の闘病をつづけてこられたのだったが、ついに逝ってしまった。
劇団黒テントの劇作家・演出家として、またテレビドラマの脚本家としても活躍してこられた人だ。わたしは昨年8 月に『日本のいちばん長い夏』の決定稿を書き上げ、意見を聞こうと会ったのが最後になった。術後の回復も思わしくないようで、「いま集中して本読めないんだ」と言いながらもパラパラとページをめくって、多重構造をもつわたしの脚本に「昔はそうじゃなかったけど最近は、なんかシンプルな構造がいいと思ってるんだ」と言ってくれた。
今年になって完成試写の案内を送ったが、結局ゲンさんは姿を見せなかった。
亡くなった日、わたしはふとゲンさんのことを思い出した瞬間があったが、虫の知らせだったのかもしれない。わたしにとってはなくてはならない脚本家だった。ドラマ演出第一作『二・ 二六事件』(1976・日本テレビ)から映画『佐賀のがばいばあちゃん』(2006 公開)まで多くの脚本をゲンさんに書いてもらった。またドキュメンタリーや情報、音楽番組でも構成作家として相談相手として、新しいことをやるとき、こまったときはゲンさんだった。そして、アマゾン設立以来今年3月まで監査役を務めていただき、わたしたちの会社の一員でもあった。
あまりにも思い出がありすぎて、ここに書けない。
あえて言うなら、ゲンさんは相手を安心させる人だった。複雑に絡みあった糸も、ゲンさんにかかるとすっとほどける、そんな思いをしたのは度々だった。頭がほんとうによくて、やさしい人だった。
ゲンさんの通夜は、くしくも、黒テント『歌うワーニャ伯父さん』(斉藤晴彦 構成・演出)の公演初日と重なった。その夜、劇団の仲間はどんな思いで舞台 に立ったのだろう。
2週間後の公演千秋楽、わたしは客席にいた。
ソーニャのセリフに胸を突かれた。
「生きていきましょうよ...。長い長い日々を、いつまでもつづく夜を生きて いきましょうよ。運命の試練にじっと耐えていきましょうよ。いまも、年とってからも、休むことなく人びとのために働きましょうよ。そして時が来たら、おとなしく死んでいきましょうね。あの世へ行ったら、苦しかったこと、涙を流したこと、苦い思いをしたことを申し上げましょうね、神様はわたしたちを憐れんで下さるわ。・・・明るい、すばらしい、うるわしい生活を見るのよ、・・・そうして休みましょうね」(松下裕訳)
「休みましょう」
【第67回】映画『KG』完成
アマゾンラテルナが製作した『KG』が完成した。
当社の西冬彦が脚本・アクション監督を務めた空手アクション映画である。主演は、同じく西が監督した『ハイキック・ガール』(2009)でデビューした武田梨奈。19歳の武田は幼い頃から空手の修行をし、全日本チャンピオンにもなった女優である。
『KG』の物語は、あるねらいをもって、いたってシンプルなものにしている。沖縄の伝説的空手家の娘(武田梨奈)が、妹(飛松陽菜・13歳)とともに父を殺した悪の地下組織に闘いを挑むというもの。
このシンプルなストーリーは、この映画が最初から海外マーケットを意識して作られているためである。日本映画がなかなか海外マーケットに進出できない理由に、日本語によるセリフと微妙な心理描写による日本人の特殊性が障壁になっているといわれる。
この映画には、そうした日本的なストーリーや人間関係はない。あくまで武田梨奈と飛松陽菜のアクションに最大のみどころを置く。可憐な少女が本物の空手で、実際に相手の体や顔面にパンチや蹴りを当てる「実闘カラテアクション映画」は、武道をやらない俳優のアクション映画に飽き足らないアジアや欧米のカラテ映画ファンの心をつかむだろう。
事実、さきごろ開かれた東京国際映画祭やAFM(アメリカン・フィルム・マーケット)では、わずか1分半のダイジェスト映像に数カ国からの引き合いがあったほどだ。
わたしがこの映画に惹かれたのも、ふたりの少女のカラテアクションだ。とりわけ、空中高くに舞いあがる姿態は、速いテンポとスピードで繰りだされるにもかかわらず、一瞬のストップモーションのごとく、一枚の絵のように鮮烈だ。
そして、アクションは彼女たちの役柄の思いが込められた心情表現そのものになっていて、バレエダンサーが無言で役柄を表現するパフォーマンスと同じように、身体 表現の到達としてさえ見ることができる。
ここには、鍛え抜かれた若い身体だけがもつ美しさがある。
『KG』は2011年2月6日公開となる。
【第68回】2011年ODS事始め
新年あけましておめでとうございます。
映像界は今年、いよいよ本格的なデジタル時代を迎える。わたしたちにとっては、「デジタル・コンテンツ」の名のもと、作品はメディアの垣根を越えて流通し、テレビ、映画にとどまらない映像メディア全体の産業構造を変え、クリエーターはおのずとマネジメントの環境にさらされる、まったく新しい身の処し方が求められる時代に突入することを意味する。
地上波完全デジタル化1年前の2010年4月に新生アマゾンラテルナを誕生させた戦略が、真に現実化される年になるだろう。
12月、アマゾンラテルナが製作したODS作品『COLD SLEEP』が完成した。
ODS(Other Digital Stuff)とは、デジタルスクリーンに対応する非映画デジタルコンテンツである。
ヴァイオリニスト川井郁子とロシアが誇るバレエダンサー、ファルフ・ルジマトフが共 演した舞台を12台のカメラで撮影、川井郁子の超絶のテクニックとルジマトフの筋肉の躍動をあますところなく描く作品である。
ヴァイオリンとダンスのコラボレーションという画期的な試みは、2010年10月新国立劇場で、川井氏のデビュー10周年を記念して公演されたものだ。地球が死滅したあとの世界。主人公はCOLD SLEEP から目覚めた「女」と彼女の前に現れた屈強な 「男」。女は自分が産んだ子どもかもしれないその男と恋に落ち結ばれる。そして禁断の愛は天の怒りにふれ、雷に打たれて男は死ぬ。男を失った女は再び長い眠りCOLD SLEEP につく。やがて、目覚めた女を待っていたのは敵として現れた男だった・・・。
天地創造を思わせる神話的な世界での、輪廻転生の物語である。
わたしたちが撮影した映像は、天井からの俯瞰や二人の超クローズアップなど12 台のカメラを駆使してとらえられたものである。そこから生まれるのは「男」や「女」といった物語の人物設定を超えて、川井郁子、ルジマトフその人のリアリティである。物語であるとともに演者の人間そのものの表出となる点で、舞台中継映像の域を超えていく。このことには、観客によっては賛否があるかもしれない。しかし、デジタルで撮影され上映されるコンテンツの宿命というか、人間のありのままの姿が「映ってしまう」こわさを避けられない。ODSは時代の潮流とはいえ、ホンモノだけが勝負できるメディアであることは、心しておかなくてはならないと思う。
アマゾンラテルナは現在、「ゲキ×シネ」をはじめコンサートのライブ・ビューイングなどさまざまなODSコンテンツの配給・配信に関わっている。『COLD SLEEP』は、今回初めて自ら製作・配給を手がけるODSとなる。
ODSは、テレビ番組、映画製作とともに今年のわたしたちの事業の柱になるだろう。
(2011年1月)
【第69回】T・ジョイ博多オープン
3月3日に JR 博多駅に新しく開業する駅ビル、JR 博多シティ内にT・ジョイ博多がオ ープンする。
これに先立つ2月28日、劇場内覧会があった。フルデジタル11スクリーン(客席数 2000)に最先端の4Kプロジェクター、ドルビー3Dシステムを備える日本有数のシネコンの誕生である。また、マスコミ向けの試写などに利用される客席数40の試写室があるのが特徴だ。
岡田裕介社長はこの劇場を「映画の玄関口に」と願いを込めて挨拶した。言うまでもなく、福岡は古くからアジアの政治や経済、文化の玄関口であった。いま未来に向かってアジアの映画との交流の拠点として、この劇場は重要な役割を担う。アマゾンラテルナにとっても、昨年4月に立ち上げたCJEJのアジア展開の発信拠点となるだろう。
この日、内覧会終了後に、私たちが製作したODS『COLD SLEEP』の試写会が行われた。舞台挨拶に立った川井郁子さんが劇中の曲を演奏、満員の観客は演奏と それにつづく映画を楽しんだ。
『COLD SLEEP』はT・ジョイ博多で先行され全国の劇場で公開される。未来に向かって映画の玄関口となる劇場のオープンを飾る作品となったことは、デジタルによるODSの制作を押し進めようとしている私たちにとって、これから先の指針の暗示といえる。
ODSは、映画館を変える。一本の映画を観る場から多様なジャンルを受容する場となっていく。すなわち、ゲキ×シネが映画館を演劇の場にしたように、コンサートホールにもスポーツのスタジアムにもイベントの会場にもなっていく。さらにはスクリーンの中の時間を共有しながら、映像に参加していくインタラクティブな場ともなっていくだろ う。
スクリーンのデジタル化は猛スピードで進んでいる。映像産業全体がODSにシフトするのは必須だ。そしてODSの促進は旧来の映像の流通や権利の構造を決定的に変える。
さて環境は整いつつある。あとは、私たち制作者の番だ。映画館がどんなに場を変えていっても、結局は人々の心の芯に届くものを作らなければ、せっかくの未来型産業も死滅する。
(2011年3月)
【第70回】震災後の創造に向かう
このたびの震災で、亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、いまだ安否の確認がとれない多くの方々のご無事をお祈りいたします。また、生活を奪われ、仕事を奪われた数十万の人びとにたいしては、心中察するに余りある思いです。心からお見 舞い申し上げます。そして、現在も昼夜を分たず必死の捜索活動にあたっている方々や私心を捨て復 旧・修復に励んでいる方々に敬意を表したいと思います。
亡くなられた方のなかに、わたしたちの制作する番組を毎週楽しみにご覧いただいた方も多かったのではないかと思うと、その方々の分まで一生懸命に良質な番組作りを進めていかなければならない。
地震が起こったとき、わたしは『生き残るための3つの取引』(CJEJ 配給/4・29公 開予定)の試写中だった。ラスト残り7分というところで、大きな揺れが起こり映写は中断した。
試写はそのあと場所を移して最後まで行われたが、それ以降今日まで、わたしのなかでは「中断」が続いているような気がする。これまで持ちつづけてきた映画やテレビ番組についての発想の仕方、あるいはエンターテインメント全般にたいするマネジメント、制作者の思想が根底から変わるのではないかという直感。
計画停電でわたしが住む一帯が暗闇に包まれた夜。家々の明かりや街灯はもちろん、いつもは煌煌と輝くコンビニや自販機の光もなかった。町が暗いだけでなく、騒音も消え静寂があった。ロウソクや懐中電灯の小さな明かりを囲んで家族が身を寄せ合う姿を想像して、なにかホッとする気持ちがあった。
復興に要する資金は20〜30兆円と言われる。元の形に戻すだけの復元にとどまらない町づくりや環境づくりなど、新しい社会システムの創造に使われる復興であってほしい。わたしたちに与えられるのは「災後」社会に寄与するエンターテインメントを作りだすことだ。それが何であるのか、どういう方向なのか、あれ以来ずっと考えている。でもまだ中断したまま、わからないでいる。
アンジェイ・ワイダ監督の一文を紹介したい。
『日本の友人たちよ。あなた方の国民性の素晴らしい点は全て、ある事実を常に意識していることとつながっています。すなわち、人はいつ何時、危機に直面して自己の生き方を見直さざるをえなくなるか分からない、という事実です。それにもかかわらず、日本人が悲観主義に陥らないのは、 驚くべきことであり、また素晴らしいことです。悲観どころか、日本の芸術には生きることへの喜びと楽観があふれています。日本の芸術は人の本質を見事に描き、力強く、様式においても完璧です』(2011年3月25日 産経新聞・朝刊より)
地震と津波、そして原発事故による放射能汚染とわたしたちはいま不安のただ中 にいるが、新しい社会を創造していく一員でありたい。
(2011年4月)