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倉内均のエッセイ 第31回〜第40回

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●第31回 映画「佐賀のがばいばあちゃん」始動!
●第32回 佐々木守さん
●第33回 がばいばあちゃん香港へ往く
●第34回 がばいばあちゃん、ありがとう!
●第35回 異例!大ヒット御礼!
●第36回 台湾公開スタート!
●第37回 「佐賀のがばいばあちゃん」グランプリ受賞!
●第38回 「母とママと、私。」
●第39回 「わたしが子どもだったころ〜唐十郎」
●第40回  新番組はじまる! がんばる!




【第31回】映画「佐賀のがばいばあちゃん」始動!
 「佐賀のがばいばあちゃん」は4月、全国に先駆けてまず物語の舞台である佐賀を中心に九州各都市で先行公開されることになった。
2月上旬、予告編をはじめポスター・チラシが出揃い、いよいよ前売り券が発売される。そして、中旬には東京で完成発表の記者会見が行われ本格的なプロモーション活動が始まっていく。 わたしはいま、これまで作り手としては経験したことのない「興行」に関わっている。通常ならば作品完成とともに監督としてのわたしの仕事は終わっているはずだが、配給、宣伝、興行のプロフェッショナルの人たちと一緒に、ポスターデザインや宣伝物の制作作業、さらには観客動員のための営業戦略、組織作りといった仕事に参加している。
映画製作とは、地を這うようにドブ板を歩きながら票読みをしていく選挙運動と同じだと言った人がいるが、まさしくその通り、テレビにはない大変さと面白さを味わっている。

作品を作り公開する以上一人でも多くの人に見てほしいというのは制作者としての素直な思いであ る。そして、なんとか興行的に成功したいというのが正直な気持ちである。もとより私たちの映画は、巨額な宣伝費を投入し物量で勝負するような環境にはない。見ていただいた方の口コミでの評価が生命線の映画である。

みなさまのご支援ご協力をこころよりお願いいたします。

(2006年2月)



【第32回】佐々木守さん
脚本家の佐々木守さんが、亡くなられた。
佐々木さんは、大島渚監督の映画や、テレビドラマの常識を破り<脱ドラマ>の異名をとった「お荷物小荷物」、怪獣の喜びと哀しみを描いた「ウルトラマン」、さらには人気漫画「男どアホウ!甲子園」の原作など精力的な創作活動をつづけた作家だった。
わたしが佐々木守作品の虜になったのは高校生の頃欠かさず見ていた「七人の刑事」(TBS)だっ た。そのなかでも『時には母のない子のように』とか『帰ってきたヨッパライ』(唐十郎主演)といったヒット曲をタイトルにした歌謡曲シリーズは傑作揃いだった。
『二人だけの銀座』」(今野勉演出・1967年)はその代表だった。房総の漁師町で働く娘(吉田日出子)が、海に遊びにきていた「みゆき族ファッション」の若者たち数人に声をかけられそのまま姿を消してしまう。「みゆき族」とはVANの洋服を身につけ銀座のみゆき通りにたむろする若者たちのことだ。娘の恋人である漁師の青年は、彼女が若者たちのクルマに乗せられたのを目撃し警察に通報、ただちに誘拐事件として警視庁の七人の刑事が動き出す。そして青年も彼女を探して銀座の町をさまよう。
フィルムカメラ1台を使ってのこのドラマの撮影は、全編実際のみゆき通り周辺で行われたと思われる。ホンモノの「みゆき族」の姿や彼らの溜り場の「絨毯バー」などリアルな風俗を映し出す実景ショットと俳優たちが探すシーンとを重ねていく構成は、隠し撮り風の手持ち撮影の効果もあって、ほとんどドキュメンタリーを見ているようだった。
みゆき通りに集う若者たちはほかの誰にも関心がない。みゆき族という<族>であってもかれらの間 に何らつながりはない。だから彼女の消息はいっこうに掴めない。漁師の青年はしだいに苛立っていく。

ラストシーン。漁師の青年がついにみゆき族の若者と一緒にいる彼女を見つける。ナイフを抜きみゆき族から彼女を奪おうとしたとき、彼女が言う。「誘拐なんかじゃない。連れてきてもらったの、ここはすごく楽しいわ」(という意味のセリフだったと思う)。瞬間、青年はいきなり走り出し、ナイフをかざしたまま目の前の通行人めがけて突進する。駆けつけた刑事が「バカヤロー、なんでお前をパクらなきゃならないんだ」と叫んで番組は終わる。

『二人だけの銀座』から13年後の1980年、わたしはフジテレビの連続ドラマ「ピーマン白書」 のディレクターとして佐々木守さんと仕事をすることになった。成績のあまりの悪さに、「お前ら、小学校からやりなおせ」と校長に怒鳴られた杉並八中3年3組の生徒25人が、自分たちを受け入れてくれる小学校を探して全国を旅するというロードムービーである。半年間26回連続の予定が、低視聴率のために6回の放送で打ち切りとなって会社には甚大な損失を与えた番組だったが、佐々木さんとの仕事は実に楽しいものだった。番組作りについても多くを教えられた。 「大きな嘘をつくためには、けっして小さな嘘をついてはいけない」。いまでも、わたしの座右の銘としている佐々木さんの言葉だ。
当時、佐々木さんは石川県の山中町に住んでいたことから、脚本作りはもっぱら近くの山中温泉の旅館に二人で籠っての作業だった。あるとき、佐々木さんが右手を怪我し包帯をしたので、口述筆記ということになってわたしが原稿用紙に書いたことがあった。脚本ができたとき、佐々木さんは愛用のモンブランのシャープペンシルをわたしにくださった。
享年69歳。はやすぎる訃報だった。

(2006年3月)



【第33回】がばいばあちゃん香港へ往く
佐賀のがばいばあちゃんが海を渡った。
3月20日から行われたアジア最大の映画見本市である香港フィルマートに出かけた。期間中のジャパンプレミアで、『佐賀のがばいばあちゃん』が日本映画代表作品として出品・上映されることになったからだった。VIPOはじめ関係者の方々のおかげで、公開まで1ヶ月という願ってもないタイミングで、国内公開に弾みをつける絶好の機会をいただいた。
22日当日、主演の吉行和子さんと原作者の島田洋七さんが到着、会場のコンベンションセンターに 入った。午後6時にレセプションが始まり、世界中から40カ国をこえる国の映画関係者、配給会社のバイヤーたちがロビーに集まった。上映前の舞台挨拶に備えて、シアター2のスクリーン裏の控え室にいたわたしたちは、主催者の方から「今日の観客の多くはバイヤーで、ビジネスの観点から見るので、かなりクールな反応だと思っていてください」と聞かされた。自分の国では商売にならないと思うと即刻席を立って別の作品に当たる、限られた期間のなかでビジネスチャンスを探す人々を相手にする試写であることに、わたしは少し緊張していた。
6時30分、わたしたちはキャパシティ300人ほどの客席の三分の二を埋めた舞台に立った。わた したちが日本語で話し司会者が英語で通訳する15 分ほどの舞台挨拶が終わって、いよいよ英語字幕版 『GABAI GRANNY』上映。

これまで日本での試写会では、だいたい始まって5分くらいすると客席からすすり泣きが聞こえてきていたのだが、ここではシーンとしている。やはり、ここはビジネスのチェック試写なのだという思いでいると、少しして、がばいばあちゃんが孫の明広と川に入って野菜を拾いながら言う「川はうちん 家のスーパーマーケットばい!」というくだりでどっと笑いが起こった。それ以降、映画が終わるまで、客席は笑いとすすり泣く声の連続だった。太い声の泣き声も聞こえた。 エンディングのローリングが終りきらないうちに拍手が起き、鳴り止まない。スタンディングの人もいる。私たちは促され、再び舞台に立って拍手に応えた。
袖に退こうとしたとき、客席からインド系の男性が駈けてきてわたしに握手を求め賛辞の言葉を言ってくれた。
上映後、まずは台湾での配給が決まった。

がばいばあちゃんは、日本が近代化のなかで忘れ、失くしてきた古き良き生活信条の持ち主であ る。それは、つい100年前まではわたしたちがごく当たり前に持っていた思想であり哲学である。
思いもかけない香港での反応はなによりも、がばいばあちゃんの精神が人種や国籍を超えて普遍のものであることを証したのだと思う。そして、川とともに生き、川からの恵みをいただくがばいばあちゃんは、自然の流れに逆らわずに生きる「アジアの人」として受けとめられたのだった。

(2006年4月) 



【第34回】がばいばあちゃん、ありがとう
 "がばい(すごい)"大ヒット! 4月22日、「佐賀のがばいばあちゃん」は全国 に先駆けて九州地区13館で先行公開となった。初日2日の観客動員は8,426名、興行収入10,18 6,000円に達する好調なスタートになった。ちなみに、この数字は昨年ヒットした「ALWAYS3丁目の夕日」の九州地区当初公開24館の成績に迫る勢いで、同作品上映9館での動員対比は175%に及ぶものだ。

初日当日は朝から雨模様。この日は、佐賀、福岡の上映館6館での舞台挨拶だった。原作者の島田洋七さんはじめ配給、宣伝のスタッフ一行は空を覆う雨雲を眺めてお客さんの入りを心配しながら、先ずはイオンシネマ佐賀大和に向かった。上映開始30分前の午前10時、「打ち込み」と呼ばれる最初の回は既に250席が完売となっていた。
島田洋七さんとわたしは舞台挨拶に立った。満席のお客さんを前に洋七さんが切り出す。「さっき佐賀の市内では3人しか人を見かけなかったけれど、人はここにいたんですね。ここは佐賀で一番人口密度が高いところです」と客席を沸かせ、ふだん映画館に来ないじいちゃん、ばあちゃんが何十年かぶりに子や孫と出かけてきたことの素晴らしさを強調した。
わたしは「佐賀、九州からミラクルを起こしたい」と言いながら、客席からの強烈な視線を感じていた。映画への期待感、これからなにか面白い事が体験できるかもしれないという思いがひしひしと伝わってくる。初日を待ち望んでいた人たちが、お金を出してわざわざ劇場に足を運ぶ、その熱い思いに、これまで経験したことのない感動を覚えて興奮する瞬間だった。製作者と観客が作品を前にして直接に向き合うことの喜びは、映画ならではの喜びだった。あいにくの雨は恵みの雨となり、まさに天が与えてくれた朝となった。
移動の車中で、わたしは「お客様は神様です」という、その意味をあらためて考えていた。横から、この映画の配給を快く引き受けていただき、配給と宣伝の統括者であるティ・ジョイの與田尚志部長がにこにこしながらわたしに言った。「監督、映画にはまりましたね」。

こうして、私たちは望外の好成績でスタートがきれたのだったが、これは長い戦いの端緒にすぎない。6月3日の全国公開に向けて、興行の本当の勝負はこれからだ。大きな物量で宣伝展開する経済力をもたないわたしたちにあるのは、関わるスタッフのひとりひとりの情熱と汗、そして映画を見ていただいた人々の熱だけである。
おりしも、3月の香港フィルマートでこの作品を見た台湾の配給会社は早々に9月の公開を決定し、さらに上海国際映画祭からもエントリー要請が飛び込んできている。「がばい」の旋風を日本そして世界に吹かせたい。

(2006年5月)



【第35回】異例!大ヒット御礼!
4月22日に九州13館で先行公開された「佐賀のがばいばあちゃん」は、6月3日に全国に拡大し て以来、現在まで延べ80館規模で上映されてきている。15週にわたるロングランで観客動員30万人を超える、「単館系」としては大ヒットとなっている。
この映画を見ていただいた方に心よりの御礼を申し上げます。

映画「佐賀のがばいばあちゃん」のヒットには、たくさんの「異例」が詰まっている。
異例の第一は、感謝してもしきれないほどの、心のこもったプロモーションである。原作者の島田洋七さん、主演の吉行和子さん、工藤夕貴さん、浅田美代子さん、山本太郎さん、三宅裕司さん、そして明広役の三人の鈴木祐真さん、池田晃信さん、池田壮磨さんは、多忙ななかを番組出演やインタビュー取材や舞台挨拶に多くの時間を割いていただいた。
その都度、一生懸命にこの映画の良さを語るその熱さが観客に届いた。取り上げられたテレビ・ラジオ番組、雑誌の媒体数は500を超える。大作映画をはるかにしのぐ数の露出である。テレビスポットによる宣伝など物量作戦が採れないこの映画の予算にあって、宣伝費に換算すれば数億円に値するといわれるほどの今回の宣伝の成功は、出演者と配給、宣伝スタッフの作品への愛情と情熱によるものだった。


異例の第二は、観客にある。
公開当初、「何十年ぶりに映画館に来た」という、ふだん映画館に足を運ばないシニア層と言われるおじいちゃん、おばあちゃん世代の存在が目立った。このシニアの人たちが映画を見終わって、家庭や仲間の間で話題にしてくれたおかげで息子や孫の世代に広がり、さらにこうした傾向に新聞などのメディアも社会現象化としてこの映画を取り上げ、「がばい現象」が一層加速して、40~50歳代ビジネスマンや子育て中の母親や若いカップルといった幅広い年齢層に広がっていった。シニアの人たちが若い年齢層の動員に大きな影響力を持ったことは、ここ十数年、若者や子供の観客をターゲットの中心にしてきた映画界に、あらためてシニア層を開拓する動きを生み出している。

異例の第三は、海外からの信号である。
国内公開スタート前後に海外からの招待が相次いだ。3月の香港フィルマートでのプレミア上映ではアジアのバイヤーたちから「異例」の好評をいただき、ただちに台湾での公開が決定。6月の上海国際映画祭では招待作品として上映され、60元という当地の物価からすれば安くない入場料にもかかわらず多くの観客が詰めかけ、熱のこもった反響を得た。そして、この秋に開催される、スペイン・バルセロナ、ドイツ・ベルリンの映画祭からも参加要請が来ている。こうした、矢継ぎ早に寄せられた海外からの関心は、国内での興行に汗をかく私たちを大いに勇気づけ、さらなる高い目標を設定する自信を与えてくれた。

そして、異例づくめの最後は、最新のニュースである。
現在、「佐賀のがばいばあちゃん」公開中の劇場では、ほぼ8月4日で上映が終了する。しかし終了 2週後の、8月19日から、全国数10館規模で「凱旋アンコール公開」されることが決定した。この館数は6月3日に全国公開された劇場の数を上回る。これまで上映されなかった地域の劇場でも公開される予定だ。
基本2~3週で番組編成される現在の日本の映画興行界にあって、少しずつ拡大しながら15週のロ ングランに至り、いままた、さらなる公開の場を拡げようとしている。
きわめて異例のことだという。

(2006年8月)



【第36回】台湾公開スタート!
「佐賀のがばいばあちゃん」が、いよいよ9月22日より台湾全土15館で公開がされた。映画館の 数は全土で67館。そのうちの15館だからかなりのシェアだ。
これに先立つ9月18日から3日間、わたしは、吉行和子さん、工藤夕貴さん、ティ・ジョイの人たちとともにキャンペーンに出かけた。空港から台北市内に入ると、ボディいっぱいに映画の広告が描かれた乗り合いバスが走っている。思わぬ歓迎ぶりにわたしたちはみな歓声を上げた。バスだけではない、地下鉄のホームにも大きな広告看板があるという。私たちを喜ばせるためのオープンセットの街ではないかと疑うほどの宣伝作戦である。しかし、それもそのはず、台湾では島田洋七さんの原作が既に20万部を超える大ベストセラーになっていて、「がばいばあちゃん」の認知度は高く、映画の公開は格好のタイミングでやってきたのだった。わたしたちのキャンペーンは新聞で連日大きく報じられ、吉行さんと工藤さんは記者会見と雑誌取材、そして人気テレビ番組3本に出演するなど多忙なスケジュールだった。
18日の夜、台北市内の映画館ワーナービレッジで、プレミア試写会が開かれ、私たちは舞台挨拶に立った。吉行さんは北野武監督「菊次郎の夏」で、工藤さんはハリウッド映画「さゆり」で台湾の映画ファンにはつとに有名で、この夜もファンの集いのような暖かい眼差しの観客が多かった。わたしは台湾にきたのは初めてだったが、人々の表情を見ているうちに、なぜか、遠いふるさとに帰ってきたような懐かしさを覚え、その思いを観客に伝えた。観客は、映画が始まってすぐに、大きな笑いで返してくれた。

多忙だったが充実した台湾でのキャンペーンを終えて帰国したその週末、台湾から速報が届いた。公開1位スタートの知らせである。22日夕方から23日の興行成績、動員1万人強、興収230万台湾 ドル。今年台湾で公開された日本映画としては、「日本沈没」の3日間興収194万台湾ドルを2日間で上回り、今年公開の日本映画のトップの成績も視野に入る勢いだという。
台湾のみなさん、本当にありがとうございます。

(2006年10月)



【第37回】「佐賀のがばいばあちゃん」グランプリ受賞!
去る10月4日から10日まで、ベルリンで開かれた「第4回ベルリン・アジア太平洋映画祭」で、「佐賀のがばいばあちゃん」がグランプリを受賞した。

オープニング上映作品に選ばれただけでも名誉なことと思って出席し、上映後の熱い反応でじゅうぶん満たされたわたしは、賞のことなどすっかり忘れて帰国し、数日後に受賞の知らせを受けたときは驚きだった。

この映画祭は、アジア太平洋地域の良質な作品を欧州に発信することを目的にしており、今年は17カ国から、長編映画部門16作品、短編映画部門29作品、ドキュメンタリー部門11作品が出品された。日本からは、「佐賀のがばいばあちゃん」を含め3作品があった。

10月4日午後7時、200名を超える観客を集めてオープニングセレモニーが始まった。会場のバ ビロン劇場は1920年代に建てられたというバウハウス風のモダニズム建築。主催者挨拶につづいて、今回の映画祭にも出品しているカザフスタンの 女性歌手が民謡を歌ってオープニングに華を添え た。その歌の、遠い昔に聞いた覚えがあるような、どこか懐かしさを感じる節回しに聞き入りながら、わたしは、ハリウッド作品が大挙して集まるような映画祭とはだいぶ趣きを異にする、主催者の志(こころざし)のようなものを感じた。

オープニング作品の「佐賀のがばいばあちゃん」 の上映が終わって、着物姿の吉行和子さんとわたしがスタンディング・オベーションのなかで紹介された。吉行さんはベルリンの映画ファンにはよく知られた存在で、これまで出演作の何本もがベルリン映画祭に出品されており、主演作のカナダ映画 「KAMATAKI窯焚き」は今年2月のベルリン国際映画祭の特別賞を受賞している。上映後、観客から「吉行さんのおばあちゃん役は珍しい。どのようにして老け役作りに取り組んだのか?」という質問があったほどだった。
そしてわたしにも質問があった。「この映画の音楽はなぜ、東洋ではなく西洋のものなのか?」「貧乏なばあちゃんが、なぜ格式のある家に住んでいるのか?」さらに、「アジア映画なのに、なぜカンフー映画ではないのか?」という質問もあった。「これはおばあちゃんの立派なアクション映画です」と 答えながら、わたしは「がばいばあちゃん」を「品格」という言葉で説明した。後で通訳の方から「品格」というのはドイツ語にはない言葉だと聞いた。 果たして、観客はどう理解したのか確かめずじまいだった。

映画祭が終わって、メイン審査員3人のコメントが届いた。いずれドイツ映画界では著名な方々と伺った。

「佐賀のがばいばあちゃん」はとても人間味のある暖かい映画です。舞台は戦後の広島という暗い過去を背負った日本ですが、人の価値観や人を愛するというテーマは万国共通であり、例え生まれ育った環境が違っていたとしても共感を覚える作品です。」
― Film Museum of Berlin /Dr. Rolf Giesen

「佐賀のがばいばあちゃん」は人間の美しさや、やさしさがうまく表されている作品だと思います。このように普遍的なテーマを扱った作品は世界中どこに行っても受け入れられるのではないでしょうか。」
― Potsdam School of Film and Television /Yvonne Michalikさん

これこそ究極の家族映画!テーマの素朴さと身近さ で大勢の人々を惹きつけることでしょう。
― 映画評論家 Kean Wongさん

最後に、ベルリン滞在中、わたしたち一行に心のこもったもてなしを尽していただいた映画祭関係者、日本大使館、そして在留の方々に心から感謝申し上げます。

(2006年11月)



【第38回】「母とママと、私。」
スペシャルドラマ『母とママと、私。~10年目の 再会~』(1月28日(日)14時~15時25分・テレビ 朝日)を演出した。テレビドラマの演出は、「デザートはあなた」(1993)以来だから久しぶりということになる。といっても、技術、美術、編集、制作・演出部のスタッフのほとんどは『佐賀のがばいばあちゃん』のチームだったから、おたがいクセも性分も知れた現場はさしたる混乱もなく事が進む、確実でスムーズなものだった。
このドラマは、岸惠子さん、夏川結衣さん、そして吉行和子さん、と豪華キャストによって繰り広げられる、産みの母と育ての母、その娘の愛の物語。

岸惠子さんは、半世紀に及ぶ映画撮影所育ちの大スターとして、ゆるぎない存在感を見せ、夏川結衣さんは、いま乗りに乗っている女優の勢いと的確な演技感覚にあふれ、そして吉行和子さんは深い読解力で、役柄の持つ天衣無縫さと複雑な愛憎を表現する。3人それぞれの見事な役作りは見る者を魅了する。
これまで、どちらかといえば「男性」の作品が多かったわたしにとっては、今回のように女優3人が縦横にからみあう女性ドラマはチャレンジであり、冒険であった。そもそも昔から、「女」を撮るのは名匠と決まっているから、わたしなどの出る幕はなく、ましてや、世の中やわたしの周囲に見る母と娘の、仲が良いのか悪いのかさっぱり理解不能な関係など、いよいよもって自分を埒外に置いて我関せずを決めこむしかなかった。
いや、正直に言えば、こわかったのだ。このドラマのサブストーリーには、物語の舞台である岡山県牛窓の伝説が描かれていて、そこにはいくつもの顔を持つ怪獣が登場する。メインストーリーはその鏡のようになっていて、「私」は「母」と「ママ」という二人(?)の怪獣に立ち向かい、果てることのない争いをつづける。
たとえ親密ではあっても女同士の関係のなかには、どこかに見えない怪獣がひそんでいるのではないだろうか。きっと、わたしはそんな女性同士の世界に立ち入って怪獣に遭遇し、翻弄されるのがこわかったのだ。無意識のうちに「女性」ドラマを避けてきたのは、それゆえに違いなかった。
実際、今回のドラマの後半、「母」(岸惠子)と「私」(夏川結衣)の二人きりの、延々とつづく激しい傷つけあいと、急転回して終章にいたる愛情を交歓しあう姿は、演出していて非常にこわいものであった。

撮影が終わってから2週間ほどして、アフレコルームで3人の女優さんと再会した。作業も無事終わって帰り際、夏川結衣さんがわたしに仕上がり具合を尋ねてきた。「乞うご期待」と答えると、夏川さんは 「こわ~い!」と笑いながら出口に消えた。「こわいのはこっちだ」、聞こえないようにわたしは言った。

(2007年1月)



【第39回】「わたしが子どもだったころ〜唐十郎」
唐十郎さんと久しぶりに番組でご一緒した。2003年の『四谷怪談~恐怖という名の報酬』以来であ る。
『わたしが子どもだったころ』は、この1月からNHKハイビジョンで始まった新番組で、各界で活躍する人物の子ども時代に焦点をあて、インタビューと再現ドラマとで構成されるものだ。 唐さんは、劇団唐組を率いて、作家、演出家、俳優として年間2回の定期公演を精力的にこなしている。その成果が、このところの連続的な受賞に現れている。2003年に紀伊国屋演劇賞個人賞、鶴屋南北賞、読売文学賞。2006年には長年の業績に対して、読売演劇大賞芸術栄誉賞を受賞している。これらの評価は、唐十郎の演劇が「現在」を映している、なによりの証左であろう。
昨年11月に浅草の木馬亭で上演された、新宿梁山泊による唐十郎作『風のほこり』は、唐さんのお母さんが戦前、浅草の劇場に自分が書いた脚本を持ち込んだというエピソードをモチーフにした、昭和5年当時の浅草のレビュー小屋の話である。わたしは70年も前の「過去」を見ながら、そこに生きる人物の描き方とかれらの生きる時代設定に新鮮さを感じ、新しい演劇に触れた思いがした。
唐十郎が描く世界は、諫早湾干拓のギロチン堤防 (『泥人形』)など現代の事象をモチーフにした芝居であっても、中枢に隠れてあるのはいつでも「過去」である。そして、唐十郎の過去にはとてつもない輝きのエネルギーが満ちており、たえず過去の力が現在を照射し、侵し、のみ込んでいく。観客は、いま自分が確かに依っていると考えている根拠や場所など、所詮フィクションに過ぎないと思ってしまうほどの時間を体験する。

そうした唐十郎の「子どもだったころ」は、彼の「過去」の原点に違いない。舞台は、戦後直後の下谷万年町。八軒長屋が並び、上野公園で商いをする男娼たち、紙芝居屋、浅草のストリップ劇場で踊る 少女などが住み着く街頭劇さながらの町である。
「唐十郎」がどのようにして誕生したか。その謎に迫ろうと思う。

(2007年2月)



【第40回】新番組はじまる! がんばる!
4月はテレビ界の正月、装いもあらたにした番組がはじまる季節だ。わたしたちの意欲を刺激し、ヤラレタ!と思わせる番組にいくつ出会えるか、と制作者の誰しもが思う。しかし、ここ数年そうした期待に応えるレギュラー番組は数少なく、年間数本の単発番組だけが、放送する側と作り手側の志を感じさせ大いに制作意欲をかき立てるというのが正直なところだった。

わたしは、昨年度のATP賞の審査員として、各社から応募があった数十本の、ドラマ、ドキュメンタリー、情報・バラエテ ィの各ジャンルの番組を見た。これは、いまのテレビの状況を理解する格好の機会となったのだが、数回にわたる審査会の結果、優秀番組に選ばれた番組はわずかにドラマのレギュラー番組を除いてほとんど単発のものが占めた。
テレビが日常的なメディアであるとするならば、定時に放送されるレギュラー番組こそ本来的な姿だと思う。単発番組はその多くが「特番」と称されるように特別なもの、非日常的なものである。長期間取材し、厚く深く構成する単発番組に比して、見る側も作る側も日常の生活のなかでの皮膚感覚や社会事 象への関心をより率直に反映させ、視聴者と制作者が互いに情報を共有し、共感し、共生していくメディアの基本形としてあるのがテレビのレギュラー番組だと思う。テレビが健全なメディアである理由はそこにある。今回の「発掘!あるある大事典」のねつ造問題は、そうした日常の感覚の上に立つ「テレビの基本」を裏切った点でいっそう罪が重いのだと、わたしは考える。

ともあれ、現在アマゾンでは31のプロジェクトが動いている。そのうち4月に新たにスタートするレギュラー番組は6番組。視聴者の日常感覚を共にする番組をめざしている。がんばる。

(2007年4月)
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