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倉内均のエッセイ 第11回〜第20回

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●第11回 冷徹と非情の間にあるもの
●第12回 西村公朝師の教え
●第13回 美しいカラダ
●第14回 泥の役者・唐十郎
●第15回 がばいばあちゃん
●第16回 アマゾン採用試験
●第17回 渡辺文雄さん
●第18回 アクション女優・チャン・ツィイー
●第19回 新しいメディアを新しいビジネスに
●第20回  テレビドキュメンタリーを読む




【第11回】冷徹と非情の間にあるもの
ドラマがドキュメンタリーに変容していく映画を見た。
マイケル・ウィンターボトム監督の新作『IN THIS WORLD』はアフガン難民の少年がパキスタンのキャンプを脱出してロンドンまで旅をする逃避行の物語である。パキスタンに始まってイラン、トルコ、イタリア、フランス、イギリスと少年は命からがら密航していく。
この映画は劇映画であり主人公のジャマール少年は実名ではあるが配役された役者である。少年は片言の英語ができ、それが各国にいる逃がし屋と電話連絡する唯一のコミュニケーション手段となっている。言葉だけが命綱となっていることが物語の緊張を支えている。

映画のスタイルの出だしはドラマ的で、短いカットを重ねるいわゆるカット割りの世界なのだが、旅が続くうちにドキュメンタリー的、すなわち手持ちカメラによる1シーン1カットを多用する手法に変わっていく。おそらくこのスタイルの変化には、監督と少年との関係の変化があったからだと私は見ながら思った。つまり、監督は当初この映画を劇映画として撮影を始めたが、ジャマール少年のなかでの変化に対応して映画のスタイルを変えていったにちがいない。少年の中でなにかが変わっていった。それが脚本による演技であっても少年にとって は、アフガン難民の生活環境から外の世界に飛び出したことが大きな理由となっただろう。なかでも、イスラムの世界からキリスト教の世界、すなわちヨーロッパの街や人々に接していく旅は彼自身の中で体験化され、設定された役柄と実人生との距離感が失われて同一化し、ジャマールが一人歩きを始めたのではないだろうか。だとすればもはやカット割りの必要はなくなる。こうして考えれば、スタイルの変化は演出家と出演者との関係において自然の成り行きだった。
しかし、映画を見て少し時間がたつと私は別の考え方をするようになった。ウィンターボトムはあらかじめジャマールの変化を見越していた、と。まだ世界を知らないアフガンの少年を長い旅に連れだし異世界であるヨーロッパに放り込んで、その心の変化をつかまえようという企みは最初の時点であったのかもしれない。たぶんこっちの方だと私は思う。初期設定のドラマは仮装にすぎずスタイルの変更は折り込み済みだ。
もとより彼にとってはアフガン難民が抱えている状況を訴えることに関心はなく、一人の人間(ジャマール)を特殊な状況に置いたときに起きる心の変化がその後どんな行動に移っていくのか、そこが狙いだった。イタリアに着いた少年が旅費を稼ぐために盗みを働くというシーンを作ることで監督はジャマール本人の変化を促進させようとしたとさえ思われる。
映画のラストはジャマール少年が本当にロンドンで亡命した、という字幕で終わる。その意味ではウィンターボトム監督のねらい通りだったのかもしれない。
冷徹な計算はときに非情に映る。しかし演出という作業はそれから逃れることはできない。
映像の作り手が持つ「凄み」と「こわさ」を考えた映画だった。

(2003年12月)



【第12回】西村公朝師の教え
12月2日、「天台大仏師法印」西村公朝さんが逝去された。享年89歳だった。
西村公朝さんは日本を代表する仏師として数々の仏像を彫刻され、戦後すぐに京都・三十三間堂の千手観音千一体仏を、昭和35年には広隆寺の弥勒菩薩像の修理を手がけられたことでも知られている。「法印」とは僧侶の位でいう「僧正」であり仏師の最高位にあたる。また、昭和27年に得度、天台宗愛宕念仏寺の住職として僧職にも就いてこられた。
私が、西村公朝さんに初めてお目にかかったのは平成11年、1999年の夏のことだった。その時、公朝さんから仏師ならではのお話しを伺った。仏像はたいてい拝む側からの目で見られている。しかし、拝まれる仏像側に立った視点からみると、これまでの私たちと仏像との関係のあり方が違ってくる、とおっしゃった。
廃仏毀釈の明治以来今日までの100年間、日本政府は歴史的な仏像を国宝や重要文化財として保護して来たが、それはあくまで宗教が介在しない「仏品仏画」 あるいは「美術品」としての保護であり、祈りの対象としての仏像保護ではなかった。すなわち国宝や重文に指定された仏像は「文化財保護法」のもとに置かれ、宗教と切り離され祭壇や灯明などと一緒に祀られることは禁じられてきたのだった。
仏像は人々の祈りの対象として造られた。それが本来の姿であり、21世紀を迎えようとするとき、仏像の本来の姿を通して私たちの祈りの気持ちを再発見したいというのが公朝さんのお話しだった。

その年の11月、私たちは公朝さんの仏師としての視点から番組を制作した。
翌年1月にNHKで放送された『発見!仏の世界』である。
私たちは、公朝さんとともに清水寺、浄瑠璃寺、宝山寺、神護寺、東大寺をめぐって仏像を撮影した。
現在、国宝や重文指定の仏像の多くは一般に公開されているが、思い出していただきたい、室内に安置されている仏像を照らす照明は仏像の頭上から電気照明によってなされている。しかし、多くの仏像は電気の無かった時代に作られ、そして祀られてきた。仏像を照らす光源は本来的には祭壇の蝋燭で、下からの光だった。
京都市の、空海が本拠地とした神護寺には五大虚空蔵菩薩像が祀られている。ここでの撮影で、私は光源の位置によって仏像の表情に決定的な違いが生じることに驚いた。
上からの電気照明では、先ず仏像の上瞼に影ができ、目元涼しく目を細めた優しい表情になる。頬と唇にも影ができて顔に微笑みが生じる。いかにも慈悲深い有り難さを持つ仏像の印象だ。しかし、電気を消し、蝋燭による下からの照明で見たとき、仏像の表情は一変した。上瞼と頬や口の下にあった影は消え、目はかっと見開くようになる。優しかった表情は厳しいものに変わったのである。さらに蝋燭の火は風に揺れ仏像の表情に映されて、まるで生きているかのような生命感を表情に与えた。また、胸飾りや腕の下の影もなくなり、上からの電気照明で前屈みに見えた姿勢はすっと立ち、重そうに見えた腕も軽みを発揮する。その時確かに、仏像本来の姿が現れたと私は感動したのを憶えている。仏はただ優しいだけではない、厳しい祈りの気持ちがなければ仏の慈悲は与えられない、公朝さん からそう解説もしていただいた。
神護寺での撮影の合間に、境内で拾った小さな石に公朝さんがさっと顔と姿を描き入れてくださった『虚 空蔵菩薩』は以来私の宝物になっている。

私がこの番組制作で公朝さんから教えていただいたのは、「視点の移動」と言うことだったと思う。常識とされている物の見方、定型とされている形を一度疑って見ること。つまり視点を移動させて人間や物を見ることは演出の基本だと改めて教えていただいたように思う。そして、隠された本来の姿を掘り起こし、そこに込められた人間の思いを再発見する、それこそがクリエイティブな作業なのだと考える機会になった。

12月18日。公朝さんが住職を務めてこられた京都・愛宕念仏寺で本葬が営まれた。信徒の人たちと一緒に彫ってこられた1200体の石の羅漢が弔問の人を迎えてくれていた。
数年間にわたって公朝さんを撮り続けご最期にも立ち会った写真家の広瀬飛一さんもその席にいて、公朝さんは闘病生活でノミを持つ力も失いかけながらも10年越しの「釈迦十大弟子」の最後の一体を彫り上げて臨終を迎えられたと伺った。
公朝さん、ゆっくりお休みください。

(2004年1月)



【第13回】美しいカラダ
名は体を表すというが、体こそ名を表す。本当はカラダにこそ人間の本質が表れるのではないだろうか、と私はローラン・プティが振り付けする『ピンク・フロイド・バレエ』の稽古を見ながら考えていた。
アプリオリに美しいカラダというものはない。引き締まって均整のとれた肉体であっても、その人間の内実が感じられないカラダは私たちを納得させない。稽古場でよく見かけた、日常での緊張感を感じさせないダンサーのカラダは美しいとは思わなかった。
美しいカラダは自分の内部の燃焼から生まれるのだと思う。ダンサーの生き方そのものがカラダから信号となって発せられ、私たちは最初、目で受信する。そして「ゾクゾクする」とか「シビれる」とか、私たちはカラダ全体でダンサーのカラダ、つまりは彼や彼女の生き方を受けとめて感動の極みに昇華させていく。理性が働くまえに先にカラダがものの本質に触れているのだ。
横道にそれるが、番組制作の過程であらかじめ論理的に用意した考えが、撮影現場の雰囲気によってみじんに壊れるのと似ている。現場での五感を信じるやり方が番組を力強くするという経験則は制作者の誰もがもっている。(もちろん、五感による破壊のためには最初に論理的な創造が必要なのだが)

2月初旬、東京で公演された『ピンク・フロイド・ バレエ』に、パリ・オペラ座バレエ団のダンサー、マリー=アニエス・ジロがゲストとして出演した。
そのダイナミックなダンスに圧倒されながら私は彼女の言葉を思い出していた。昨年10月、オペラ座の秋のバレエシーズンの幕開け2作目、同じくローラン・プティの『クラヴィーゴ』で官能的な女性を踊ったマダム・ジロは、私たちのインタビューに「ダンスとは自分自身の発見である」と答えた。そして、新しい表現はそれまで気づかなかったもう一人の自分を見つけだすことではじめて手に入れることができると語った。すなわち、美しいカラダは自分と向き合うことなしには生まれないということだ。私はこころから感動し熱烈な彼女のファンにな った。 ジロだけではない。日本のダンサーたちもかれらのカラダで生き方を語った。
『ピンク・フロイド・バレエ』のオープニングをソロで飾った19歳の菊地研のカラダは躍動感あふれるものだったし、上野水香のカラダははっとするほど美しくドラマチックに動く。そこから想像できるのは、菊地研という若者がいま大きなチャンスを与えられて躍動的に日々を過ごしていることを思わせるし、世界の舞台に登場し始めた上野水香はダンスに真摯に向き合い、たえず自分を変えていくことを考えつづけている深さを伺わせる。ダンサーのカラダは正直に人間を語る。

一方で、ダンスは振付家によって創られる。振付家は言葉でなく実際に自分で動いてみせてダンサーに伝える。カラダだけがコミニュケーションのツールになっている。実際、ローラン・プティの稽古を見ているとダンサーと交わす言葉のほとんどは「素晴らしい!」とかの感嘆詞や「きっと上手くいくよ」といった激励の言葉だ。けっして言葉で意図や具体的な動きを指示することはない。とすると、振付家の美意識や教養や精神といった作品のテーマの根幹をなす思想はカラダで伝えるしかないことになる。
すなわち、カラダは思想そのものとして考えなければ振付家の仕事は成立しない。撮影の現場で抽象の迷路でもがく私にとって、ダンスはとても明解な出口を与えてくれる。

やはり、オペラ座のダンサーでクラヴィーゴの妻を踊った、クレールマリー・オスタは語った。
「ダンスは、人生の答えを与えてはくれません。しかし、人生の理想がどんなものかを見せてくれます。それにより、人間として生きるための手がかりを示してくれるのです。だからこそ、私たちは努力をし、正確に、深く、そして毎日変わらずに訓練された体で踊らなくてはならないのです」

ダンスという表現は、カラダに尽きる。
美しいカラダへの希求は、美しい私自身であることへの希求に他ならない。
いま、私のカラダは美しいだろうか、と考えてしまう。
この稿を書いた直後、「週間新潮」の一報に接した。上野水香が牧阿佐美バレエ団を退団したというものである。世界のミズカになってほしい、心から願ってやまない。

(2004年3月)



【第14回】泥の役者・唐十郎
唐十郎さんが第七回鶴屋南北戯曲賞を受賞された。
唐組が昨年上演した「泥人魚」での受賞である。
唐さんは同時にこの作品で紀伊国屋演劇賞、読売演劇大賞優秀演出家賞、読売文学賞戯曲・シナリオ賞を受賞、いわば昨年の演劇賞の独り占めとなった。

鶴屋南北賞受賞の知らせを伺ったとき、私は南北の「縁」と思った。唐さんとご一緒して、「四谷怪談~恐怖という名の報酬」という番組を制作、放送した直後だったからだ。唐さんもそう思われたらしい。真っ先に私に電話をいただいた。
「泥人魚」は西新宿の高層ビルの谷間にあって都市開発に取り残されたような空き地や、雑司ヶ谷鬼子母神の鬱蒼とした神社境内で上演された。そこはまるで都市にぽっかり開いた穴のような場所だった。地中深く広がる闇へのその入り口に紅テントを張り巡らせ、闇の彼方に沈み込もうとしている都市の記憶を原色鮮やかに塗り替えて観客に提示する唐十郎と、江戸後期の芝居小屋で江戸市中に横たわる闇を目の前に取り出してみせ、恐怖という形で観客に突きつけた鶴屋南北。この二人は闇を紡ぎ物語る語り部として、生まれ変わりの瓜二つである。唐十郎が鶴屋南北を冠した賞を受けるのは必然ともいえる。

3月17日。東京会館で行われた鶴屋南北賞の贈呈式で、挨拶に立った唐さんは私たちの「四谷怪談」の写真をかかげて「泥」について語った。その写真は伊右衛門に扮した唐さんが泥のなかから出現するシーンの一コマだったが、諫早湾干拓のギロチン堤防工事をモチーフにした「泥人魚」でも唐さんは諫早湾から運んだ泥のなかに潜って溺れそうになるほどの芝居を演じていた。(このことは番組制作を終えたあと「泥人魚」再演で初めて知って私は赤面したのだが)泥のなかで目をしっかりと開けていたと切り出しながら2種類の泥を口に残る歯触りで 比較した唐さんのスピーチに私は打たれた。
唐さんの泥とは汚泥として私たちが消し去ろうとしつつある記憶そのものであり、もはやその混沌にエネルギーを見いだせないでいる私たちの現在に対するアンチテーゼに他ならない。唐十郎は泥の水槽を泳ぎながら泥を撹拌しそこから人魚を生み出した。そして私たちのすぐとなりに異形の生命を現出させることで、安住しつつあるモラルと秩序の破壊者たらんとした。大家にしてなお「泥」にまみれ続けようとする、作家である以上に役者であろうとする唐十郎の面目躍如たる宣言がそこにあった。

唐さんは鶴屋南北賞受賞の冊子にこう書いている。
『「四谷怪談」の歌舞伎台本を読んでから、伊右 衛門がお岩さまを戸板にくくりつけ流した橋(今は 面影橋となっている)に行き、そこから戸板が流れた川筋をたどり、高速道路の下の真っ黒な運河を見下ろし、隅田川までと巡って歩いた。あるテレビ局のドキュメンタリーで、鶴屋南北の作品を介して、化政期の都市である江戸を覗きながら、その頃の観客に向かって、南北がどんな作劇術を編みだしたのかという・・・・目もくらむような主題を担った番組だったが、私がそのガイド役になったり、過去の舞台に飛んで伊右衛門になったりした。演出家のクラさんと、まる三日、戸板が流れていった水面を見つめ、追いかけ、終りにたどりついたのが夜の<隠亡堀>だった。戸板が引っくり返る名場面の、その水縁に立って、クラさんにこう聞かれた。「南北はどうして<水>という装置を、劇作の中で使ったのでしょうか」溜り水の岸辺に虫の声ひとつない。私はかぼそい声で言った。
「水は江戸の<体液>だったんじゃないでしょうか。私もそんな水につかりたい」
これは、鶴屋南北戯曲賞の知らせが届く二ヶ月前のことでした。受賞によって、私の作「泥人魚」は水を得ました。』(「受賞の言葉」)

唐さんからの電話で鶴屋南北賞受賞の知らせを伺った翌日、ご自宅に劇団員が集まってのごく内輪のお祝い会にお邪魔した。そこには既に書き上げられた次回作「津波」の台本があった。A3のノートに万年筆で書かれた手書きの台本である。一字一句の訂正も追加もない、初稿にして完成稿だった。
「ぼくは役者だから、台詞を言うようにリズムで書くからこんなふうになる」と唐さんは言った。
きっと、鶴屋南北の台本もこうだったのではない か、と私は思った。

(2004年4月)



【第15回】がばいばあちゃん
いまアマゾンでは、映画製作の準備が進められている。
島田洋七氏が書いた自伝「佐賀のがばいばあちゃん」が原作の映画である。

広島生まれの洋七さんが、原爆の後遺症で父親を亡くしたあと故郷である佐賀の祖母のもとに預けられ、小学校2年から中学卒業までの9年間をおばあちゃんと二人きりで暮らした生活を、笑いと涙で綴った物語である。
洋七さんは前書きにこう書いている。



『ばあちゃん、この二、三日ご飯ばっかりでおかず がないね』
俺がそう言うと、ばあちゃんはアハハハハハ ハ・・・・と笑いながら、『明日は,ご飯もないよ』と答えた。 俺とばあちゃんは,顔を見合わせると、また大笑いした。
今から四十年ほど前の話である。
所得倍増計画、高度経済成長、大学紛争、オイルショック、地価上昇、校内暴力、円高・ドル安、バブル、そしてバブルの崩壊、価格 破壊、就職氷河期・・・。
「今、世の中はひどい不景気だ」とみんなは言うけれど、なんのことはない。
昔に戻っただけだ、と俺は思う。
変わってしまったのは,人間の方だ。
お金がないから。
ホテルで食事できないから。
海外旅行に行けないから。
ブランド物が買えないから。・・・・そんなことで不幸だと思ってしまうなんて、どうかしている。 (中略) 本当はお金なんかなくても,気持ち次第で明るく生きられる。
なぜ断言できるかと言うと、俺のおばあちゃんがそういう人だったからだ。



私は洋七さんと同年代で、高度経済成長が始まる直 前の時代に小学生だったが、その頃、クラスには家庭の経済格差が少しだけ現れていた。たとえば、家庭にテレビがある子とない子がいたり、持参の弁当の中身や服装にちょっとした差があったりした。しかし、クラスのだれもがそれをごく当たり前のこととして受け入れ、そのことで同情や差別が生まれることはなかったように思う。
なぜだろうか。
学校のクラスは社会の縮図だったからだ。金持ちの子も貧しい家の子も、成績のいい子もそうじゃない子も、あるいは健常の子もからだが不自由な子も混在していた。子供たちがそうしたクラスの状態を自然に受け入れていたのは、当時の大人たちが社会を混在しているものと認識し、子供にもそう教えていたからに違いない。階層や地位や身体的特徴によって社会の構成を区分するのではなく、多種多様な人間が混在することが世の中であり、それが公平ということなのだと考える大人たちがいた、ということだ。
洋七さんが前書きの中で「気持ち次第で明るく生きられる」と書いた「気持ち」とは、つまり当時の大人たちの社会観のことを言っているのだと私は思う。

高度経済成長は、日本人の社会観を一変させた。だから人生における幸福観も変えた。
大量にモノを消費するのが美徳とされ、より速くより効率的にというスローガンのもと高速道路と新幹線ができ、マンションと団地ができ、「豊かさと便利さ」の名のもとに、効率至上主義が職場をはじめ社会のすみずみまで徹底され、それまでの非効率的な「混在」は排除された。そして混在する社会の縮図であったはずの学校が異質な者を差別する場所になっていった。
経済価値を第一に追い求める時代を夢中に生きてきて気がついてみれば、私たちはテロや戦争や病気や子供たちの犯罪が頻発する現在にいる。

明治33年(1900年)生まれの「がばいばあちゃん」は、戦後の経済成長が猛スピードで進む時代にあって物質的な貧しさを何とも思っていない。皆がそろって進む方向に歩調を合わせようとしない。
そこには葉隠を生んだ佐賀の人らしく武士道精神のようなものすらあって、断固、自分の生き方を曲げない、がばい(すごい)ばあちゃんである。
孫(洋七少年)が次々に抱える難題に当意即妙に応える、そのギャグのような対応ぶりは、極めつきの貧乏生活をこころから楽しんでいるようにも見える。がばいばあちゃんの生活はポップでさえある。
苦境を楽しむには、幸福を楽しむ何倍ものエネルギーが要るだろう。
私もこの映画を楽しもうと思っている。

(2004年6月)



【第16回】アマゾン採用試験
5月と6月はアマゾンの新人採用の季節だった。
アマゾンの定期採用は設立以来、社員全員が参加するのを原則に続けている。何百通という応募者の作文を読んで一次選考が始まり、二次三次の課題作成と試験実施、そして個人面接、最終選考で終わる、およそふた月に渡る作業だ。社員数十人が通常の番組制作の仕事をするかたわら採用試験に関わる。この間に私たちが費やす時間と手間ひまは膨大なものだ。番組制作に置き換えても特大の単発番組をはるかに超える規模といってよいだろう。
最終選考の段になって社員による議論が白熱する。挙手による多数決で数名に絞られていく過程で、ひとりの人物を巡って何度も議論が繰り返される。最初、少数の手しか挙げられなかった人物でも強烈に推す意見が説得力を得て挙手の数が増えたり、また多くの賛成者がいても正鵠を得た反対意見で逆転が起きたりして、議論は深夜に及ぶことが多い。
「採用」にかかる人的労力は、大型番組制作に匹敵するアマゾン最大の会社イベントである。と言ってもそれは規模の問題だけではない。選ぶ側である社員の一人一人が問われる、という意味でも大きなイベントだ。新しい仲間を選出するにあたって私たちは結局、「アマゾンとは何か」というテーマに直面し、自らが考える製作会社としてのありかたや「番組とは何か」を自分に問うはめになるからだ。社員が一同に集まってこうしたことを考えたり議論をする機会は日常の番組制作の現場ではなかなか無い。「採用」は最大級の熱エネルギー質量が働くもうひとつのプロジェクトとして私たち自身を鍛える場にもなっている。

毎年開かれているATP(全日本テレビ番組製作社連盟)主催の就職セミナー「TV-EXAM」での会社説明会で、私はあえて「アマゾンに入りたい人だけが受けに来てください」と強調している。奇異に聞こえるかもしれないが製作会社ならどこでも、という学生が年々増えているのだ。そうした傾向のなかでは私の発言は挑戦的だと思う。 私は採用試験を、彼らが社員を相手にアマゾンという会社について議論したり、アマゾンが制作する番組を批評する場にしたいと考えている。用意された就職マニュアルや一般的なテレビ論ではなく、アマゾンやアマゾンの番組を刺激する意見や思考から、その人物のクリエイティブな姿勢や資質は充分に見えてくる。

「アマゾン」にこだわる採用は今後も続けていきたいと思う。なぜなら、私たちが最も関心あるのはアマゾンとその番組だからだ。
しかし、いま私はちょっと暗然たる思いがしている。今回の採用試験に限っても、アマゾンの制作する番組を見ずに受けに来たり、何年も前に放送された番組しか見たことがない、という人が少なからずいたことに驚いた。人々の関心を惹くような番組を私たちは作っていないのではないかと自戒もしたが、ぜんたい、自分の新しい人生の場所を決めようとするときに、就職先の仕事の内容とそこにどんな人間がいるのか研究することなしに採用の場に臨む彼らのことをどう考えたらいいのだろう。
もしかしたら、いま就職活動をする学生たちの間ではそれは一般的な姿勢になりつつあるのかもしれない。就職氷河期といわれながら、学内を見渡しても同じ姿勢の人間が多いことが競争心をなくし、自分を磨くことに怠慢になっている状況がキャンパスを覆っているとしか思えなかった。
私を不安な気分にさせるのは、今後ますます、製作会社の中にそうした人間の数が増えていくのではないかという思い。そのときに現れるのは、仕事の質と個性を問わない「均一」化である。「均一」はクリエイティブ の最大の敵である。

6月中旬、アマゾンの採用試験は終わった。
今回、採用を内定したのは例年より少ない2名だった。
大げさだが私たちの業界は日本の大学教育に批判的かつ積極的に関わる必要があるのではないかと本気で考えている。

(2004年7月)



【第17回】渡辺文雄さん
渡辺文雄さんが亡くなられた。
20年ほど前「TVムック」という番組でご一緒して以来、C・W・ニコルさんの番組で何本かご出演願った。その間、行きつけの赤坂のおでん屋で偶然一緒になって飲むこともあった。また、還暦のお祝いのパーティで赤いちゃんちゃんこを贈られた渡辺さんがさっそくそれを身につけ、いかにも若々しい渡辺さんがちょっと戸惑いを見せた光景はいまでも鮮明だ。

渡辺文雄という俳優は、私の高校生時分に夢中になって見た大島渚映画の常連として、大学に入ってからは東映ヤクザ映画の悪役インテリヤクザとして、私にとっては強烈な存在だった。二枚目なのに屈折した強面というキャラクターはそれまでの日本映画にはいない特異なものだったように思う。
渡辺さんのライフワークともいえる「遠くへ行きたい」でご一緒することはなかったが、ニンニクをテーマにした「TVムック」ではじめてご一緒し、隠岐、高知、信州、そして韓国でロケをした。私が30代前半のときだ。それはニンニクがなぜどのようにして日本へ渡ってきたのかを探る番組だったが、私はノンフィクション番組でありながらドラマさながらのシナリオを作り、フリートークを身上とするリポーター渡辺さんにあえて台本のコメントをお願いした。博覧強記で知られ、巧みな話術の持ち主の渡辺さんに、無謀とも言える演出をしたのはい まとなっては赤面ものだが、20も若いディレクターの実験に渡辺さんは面白がって「つくられたドキュメンタリー」の片棒をかついでくれた。完成後の試写を見て「こんなのがあってもいいよね」と言っていただいた一言が、ちょっと複雑なニュアンスとして私に残っている。

渡辺さんほど、スタッフと酒を飲みながらあれこれ話し合うのが好きな人はいなかった。夕食後、ロケ先の宿舎の部屋にスタッフが集まり、撮影中の番組に始まり、古今東西の歴史や映画の話題に及びきまって深夜になった。あり余る知識と思考のすべて吐き出さないと気が済まないのではないかと思えるほど、渡辺さんは全力で語った。こちらも黙って聞いているだけではすまされない、浅薄な耳学問も動員してなんとか応戦しければならない、まるで戦場のような夜になった。そして、それが翌日の撮影に確実に反映した。風景カット一つ撮るにも気合いが入った。その番組のカメラマンが何年かたって「あの夜のことは忘れられない」と言ったほどだ。集団 でものを作ることの意味と力の源泉のありかを渡辺さんに教えていただいた。
そんな人はもういない。
きっとあの世でも、渡辺さんは相変わらずに仲間と痛飲し、おおいに語り合っていくだろう。
こころよりのご冥福をお祈りします。

(2004年8月)



【第18回】アクション女優・チャン・ツィイー
アマゾンではいま、女優チャン・ツィイーのドキュメンタリーを制作している。
チャン・ツィイーは北京生まれの25歳。19歳のとき張芸謀(チャン・イーモー)監督の「初恋の来た道」でデビュー、以来「グリーン・ディスティニー」、「HERO(英雄)」、最近作「LOVERS」と立て続けにヒット作に主演、いまや中国を代表する映画女優となっている。
デビュー後、彼女が出演してきたのはもっぱら最新の映像技術を駆使した<アクション映画>である。そして中国映画は、いまやアクションをもって世界制覇を果たしつつある。
ツィイーのデビュー作「初恋の来た道」は、中国式分類によれば、非・アクションの「文芸映画」だが、彼女のアクション女優としての資質はすでにデビュー作に現れていたと私には思える。
彼女が演じたのは、貧しい農村の小さな学校に町から赴任してきた青年教師に淡い恋心を抱く少女だった。クルマや電話、テレビさえない、現代文明の及ばない土地で、おそらく満足に教育を受けていない少女がインテリ青年に好意を示そうとしても、彼女には彼と交わすべき共通言語がない。彼女にはただ、必死でけなげな行為しか彼への好意を伝える手だてはない。チャン・ツィイーは文字通りの体当たりをもってその役を果たしたが、ほとんど台詞のないこの少女役で映画女優としてのスタートを切ったことは象徴的で、いま思えば、彼女はデビュー作にして、すでにアクション女優の道を歩み始めていたことになる。

いまから20年ほど前に、私はあるドラマのシナリオハンティングで、中国・東北地方の農村の小学校を訪ねたことがある。ちょうど音楽の授業でひとりずつ前に出て歌を歌うのだが、7~8歳の子供たちが歌詞にあわせて科(しな)を作り、身振り手振り、愛嬌豊かな姿態で歌う様を見て私はとても驚いた。ごく普通の小さな子供がプロ歌手張りに、歌ひとつ歌うにも全身で表現するのである。経験的に私たちがしてきた歌唱の仕方とはだいぶ違って、身体表現そのものを表現とする中国の伝統を感じないわけにはいかなかった。

ちょうどその頃、すなわち文革の時代が終わった1980年代半ば、地方に下放された経験を持つ張芸謀、陳凱歌、田壮壮などが地方を舞台にした作品で国際的な評価を得て、中国映画は一躍世界の注目を集めるようになった。しかし彼らの作品の多くは「文芸作品」といわれる映画であり、ハリウッドに伍して世界を席巻するまでには至らなかった。彼ら新しい世代の映画作家たちにビジネス上の成功を目的にした世界戦略が求められたとき、彼らはきっと伝統の再評価に向かったに違いない。文革で禁じられ,忘れられつつあった、本来中国が伝統的に備え ていた身体表現力の再発見。それが彼らの武器になったことは想像に難くない。そして、張芸謀は幸運にもチャン・ツィイーという、旧来の中国女優とはまったく異なった現代的なキャラクターを発揮すると同時に、伝統に根ざした身体表現力を持つ女優と出会うことで、「中国アクション」の世界戦略を成功に導くきっかけをつかんだのだと思う。
先日のアテネ・オリンピックの閉会式で、次回開催の北京を予告するパフォーマンスに伝統的な中国舞踊を取り入れた演出をしたのも張芸謀だった。豊かな身体表現力で成る中国アクションは今や確実に世界の主流になりつつある。
アマゾンの「チャン・ツィイー・ドキュメンタリー」チームはこの夏、鈴木清順監督の新作「オペレッタ狸御殿」に出演した彼女の、60日に及ぶ撮影 風景や東京でのオフを取材をしてきた。
そして9月、取材班は北京に飛ぶ。そこには、彼女の生い立ちのなかで重要な、少女時代に学んだ舞踊学校がある。きっと、中国アクション映画とアクション女優チャン・ツィイーの秘密に迫る取材となるだろう。

(2004年9月)



【第19回】新しいメディアを新しいビジネスに
10月になってオフィスに届いた一通のたより。
畑しめじ、紫しめじ、から松茸、くり茸などのキノコが採れはじめ、赤く色づいた野ばらの実やりんどう、われもこうが今も盛りの季節を伝える葉書だった。今年最初の秋の知らせは長野県黒姫からのものだった。

96年から97年までの2年間、私は毎週のように長野県の黒姫高原に通っていた。長野新幹線ができる前で上野から3時間あまり、信州の奥深く分け入っていく信越線の車窓は季節ごとに美しく、黒姫に向かうだけで生き返るような解放感を味わっていた。
私たちは、黒姫山の麓にある「竜の子」というペンションの厨房を舞台に、CSチャンネルで月に2回放送する『竜の子厨房日記』の制作をしていた。
その時期、日本のデジタルCS放送がスタートし、それは私たち制作者に新しいテレビの可能性を期待させ想像力を刺激させる新しいメディアの登場であった。

私たちに与えられた番組枠は一回2時間。私は番組のホスト役を「竜の子」の主人であり天才肌の料理人である中原英治さんにお願いした。中原さんはもともと美大を出たデザイナーで、どこかの店で料理修業をした経験はないが彼の料理を求めての常連客も大勢いて、また食客としての豊かな経験からの見識とアイデア、器に対する造詣の深さから、多くの料理人に影響を与え、一流と言われるシェフたちと交流を持って来た人だ。
『竜の子厨房日記』は、毎回中原さんと交流のあるシェフを招き、あるときは料理の品を分担し、あるときは同じ食材を使って対抗戦の形をとりながらの料理番組だった。何より黒姫ならではの食材が豊かで、春はタケノコ、夏はトマトやズッキーニ、秋は山に入ってキノコを採り、冬は猟にもつきあって鴨やキジ、ウサギも俎上にのった。また直江津港から1時間という地の利を得た新鮮な魚など食材選びはそのまま黒姫の自然を映した。そして本番、その夜ペンションの客に供されるディナーを料理する、その一部始終が厨房の中だけで撮影され、2時間の 番組になった。
それまでの多くの料理番組は時間の都合から過程のディテールが省略されレシピとポイントを見せるものだったし、グルメ番組と言われる多くが食べることに主眼が置かれたものだった。
私たちはしかし、ただひたすら料理の行程にこだわった。洗う、切る、開く、擦る、たたく、ほぐす、煮る、焼く、蒸す、盛る、そして道具や器を洗う、料理人の一挙手一投足を追い、省略なしに料理の出来上がりで終わる、まるで2時間1カットのような番組だった。
そしてこのこだわりが、従来の料理番組では見られなかった、自然の移り変わりと料理人の人間性を描くドキュメンタリーとなっていった。料理の準備から完成までの2時間は、水と火とによって素材が形と色を変容させる時間であり、料理が時間芸術であることをまざまざと認識させた。とりわけ面白かったのは、天才とか名人といわれる料理人が仕事を進めるなかで垣間見せる一瞬の迷いと素早い対応に迫られての即座の決断が、私には作り手のひとりとしても共有できる、見応えのある驚きと発見の連続だった。さらに進めて、制作者がその土地に定住し 小さな季節の変化と暮しを記録しながら番組を送り出していく、そんなデジタル時代の拠点のあり方を夢想させた、CS放送の始まりにふさわしい方法論を見つけた思いもあった。

と、ここまで長々と過去の事例を紹介してきたが、ここには反省もひそんでいる。
今、パソコンや携帯端末への映像配信ビジネスが本格的な動きを見せ始め、アマゾンも来年春からのブロードバンドでの番組作りの仕事が持ち上がっている。数年前に出現し、私たちの未来の仕事として想像力を刺激したCSやBSのデジタル放送の現在は、関わる人の様々な知恵と工夫がなされているとはいえ、まだまだメディアとしてはマイナーの域にとどまっており、ビジネスとしても苦心を迫られている。私たちは制作者に過ぎないが番組の方法論のみに終始しているかぎり、王道を行く地上波と肩を並べるような新しいメディアを獲得できないことは 経験済みである。ジャンルで発想しない自由な編成と小型軽便化され価格も安くなったデジタル機材を手に入れた制作者の自在なあり方。この二つがリンクしあって発信されるソフトこそが、ペイシステム やスポンサードの新しいビジネスモデルを生み出していくのだと思う。
マスコミを賑わすのはいつもハードについてのニュースばかりだ。いま、新しい編成、新しい営業、そして新しいソフト制作が一体となった方法論が 人々の話題を集めるようにならなければ、本当の意味での未来のメディアとビジネスには育っていかないだろう。

黒姫からのたよりには、11月15日に解禁される鴨と新そばの知らせもあった。久しぶりの「竜の子」で秋を楽しみながら、新しいメディアについて考えてみたいと思う。

(2004年10月)



【第20回】テレビドキュメンタリーを読む
今野勉さんが書いた「テレビの嘘を見破る」(新潮新書)を読んだ。
1993年、NHKの「奥ヒマラヤ 禁断の国・ムスタン」にやらせがあったとする新聞報道が社会問題に発展、ドキュメンタリーにおける演出はどこまで許されるのか、大きな議論が巻き起こった。この事件は、そもそもドキュメンタリーの演出とは何かという根本的な質問を私たちに投げつけた。
今野さんはこの質問に答えるべく、事件以来10年、時に歴史的なドキュメンタリー作品にあたり、時に現代のドキュメンタリー映画における演出表現やテレビ番組で多用される再現手法を検証、縦横にドキュメンタリーについての研究を重ねてきた。その作業をまとめたのがこの本である。
このなかで今野さんはドキュメンタリーの演出方法を二通りに整理して、あらためて読者に問いかけを発している。すなわち、目の前で起こっているありのままの事実を撮影するプロセスのなかで,演出家の発見を伝えるのが正しいドキュメンタリーなのか、それとも、事実の再現をはじめあらゆる手法を駆使して、演出家が発見した真実をメッセージとして伝えるのが本来のドキュメンタリーなのか。今野さんはどちらかに正解を与えることはしていない。
そして、手法の問題にとらわれるべきではない、大事なのは演出家が世界と向き合うことだと結論づけている。
私がこの本で面白かったのは、今野さんの研究作業の道筋のひとつひとつをともに体験しているかのように読むことができた点にある。そういう意味では、まさしく今野さん演出のドキュメンタリー番組を見ている感があった。ここには対象にむきあう今野さんの演出家としての方法が明確に表現されている。つまり、(古今東西のドキュメンタリーという)素材をありのままに、正確に、客観的に、仔細に、ごく自然な成り行きで並べていきながら、最後には発見に満ちたメッセージを浮かび上がらせる。
ドキュメンタリーを論じるに今野さん一流のドキュメンタリー手法をもってなす、演出家今野勉の面目躍如たる表現方法に私はまたしても刺激を受けた。
またしても、と書いたのは今野勉というディレクターは私にとっていつも刺激的な存在だったからだ。今野さんが演出したドラマ「七人の刑事」に刺激され、できるなら今野ディレクターのもとでドラマに携わりたいと製作会社に入社したら、当の今野さんは旅番組や音楽番組を演出していた。ドラマディレクターは旅や音楽も手がけるディレクターでもあった。私が最初に体験したテレビはジャンルを超えるメディアだったのだ。私はテレビというジャンルがあるだけだと考えるようになった。
今野さんはその4年後に、ふたつのジャンルを衝突させる演出をした。日本のドキュメンタリードラマの誕生である。1975年の「欧州から愛をこめて」は、実在の人物が主人公のドラマでありながら、そこに現代のリポーターが関わっていくという方法を導入した。この番組は単に異ジャンル同士の融合という以上に、ドラマで描かれる過去の時間と現在の時間を交錯させて、ドラマの史実をドキュメンタリーで検証するという、まったく新しいテレビ的表現を獲得した。
今野勉は、ドキュメンタリーという異物をつかってドラマを解体したといえるし、新しいドラマを創造したともいえる。その後、ドキュメンタリードラマは数多く作られ現在に至っているが、ドキュメンタリーとドラマのふたつのジャンルが一本の番組の中で混在したものが多い。これらは今野演出とは似て非なるものだ。ドキュメンタリーはジャンルではなく方法、それが今野勉のドキュメンタリー認識だった。
そう考えると、こんどの本での今野さんの結論は明解だ。すなわち、ドキュメンタリーを固定したジャンルとして議論するのではなく、制作者も視聴者ももっと自由に世界にむきあうことが肝心なのだと。

テレビをジャンルで区別するのはたぶんに便法で、視聴者やスポンサーにとって分かりやすいからである。だからといってドキュメンタリーをジャンルと規定して考える発想は、テレビを貧しくする。
ドラマであれ、音楽やスポーツであれ、そこにいる人間を正確に描写するための、ドキュメンタリーはアプローチの方法にすぎない。
私は「テレビの嘘を見破る」をそう読んだ。

(2004年11月)
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