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倉内均のエッセイ 第1回〜第10回

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●第1回 出井さんのふたつの軸
●第2回 デジタル時代の制作者のライフスタイル
●第3回 「花の都・江戸」
●第4回 テレビは身体的表現
●第5回 予見
●第6回 番組は夢の軌跡を写す
●第7回 夏とはいえど片田舎
●第8回 神田川
●第9回 魔術師
●第10回  唐十郎の凄腕




【第1回】出井さんのふたつの軸
ONのなかにOFFがあり、OFFの なかにONを見つける、そんなライフスタイルを実践する人物がいる。SONY代表取締役会長兼CEOの出井伸之氏だ。

アマゾンは、2002年の5月から「出井伸之 私の流儀」という 3分番組を毎月5本制作(放送: SKYPerfecTV・749CH)、公私に渡る氏の言動を伝えている。

出井氏のスケジュール表には「OFF」がない。私たちが制作を開始した3月末の最初の驚きだった。世界 企業ソニーのトップ、GMやネスレの役員、さらには 様々な団体や委員会のメンバー、殺到する講演依頼・・・、出井氏の毎日は「ON」の連続である。いったい出井伸之氏の「OFF」とは何だろう、どんな風にして「OFF」をつくり出すのだろう、それが私たちの関心事となった。

旧来の社会システムを支えてきた物理的、経済的な 成長が崩壊した今、社会の価値観がモノの創出から 個の創出へと移行していくのは間違いない。だとすれば、これから先はいかに人間ひとりひとりが個としての幸せや責任を確立させていくか、言い換えれば、「OFF」の自分をいかに効果的に「ON」の組織 や社会に交差させるか、そこから新しいパラダイムを見いだせるに違いない。出井氏というグローバルビジネス・リーダーの「ON」と「OFF」を見ることはその意味で格好の機会だと考えた。

また、ひとりの人物のOFFからONを解き明かすアプローチの番組は、これまでに無いものになるかもしれない、という期待もあった。これは小さな番組ではあるが、これからの番組制作の発想を開発していく最初にもなると考えたのだった。

取材が始まった。4月のある日、出井氏は、一泊の熊本出張を終えて飛行機を待つ間に空港の書店に入り、何冊かの趣味の雑誌を買い求めた。その中に時計の雑誌があった。時計の趣味をお持ちらしい、そういえば氏の腕にはいつも機械式時計があった。しかし私はそのことはしばらく忘れていた。5月の連休 になって、出井氏を軽井沢の別荘にお訪ねしたとき、私たちは出井氏のONとOFFが交錯する瞬間に触れた。東京から持ち込んだ出井氏の鞄の中に、目を通しておかなければならない膨大な仕事関係の書類とともに件の時計の雑誌があった。そして、その中の一ページが折られていて、見るとそれはITを組み込んだスイス製の新型の時計の紹介記事だった。「この時計を作った人は、コンピューターを解する人に違いない」と出井氏は直感したのだった。そしてそこに止まらない行動があった。出井氏はただちにスイスの時計メーカーにメールを送り、新しいビジネス・チャンスへの可能性にトライするのだった。

取材が終わって、私たちはワインをご馳走になった。身に余るような年代物のシャトー・マルゴーと若いカリフォルニアのナパのワインを出井氏は同時に開けた。それはしかし単なる飲み比べではなかった。古いものと新しいものを交差させることで発見が生まれる。そんな気にさせた出井氏の演出だった。

ONとOFFがそうであるように、異なるふたつの軸を 交差させる。そこに出井伸之氏の流儀があった。

(2003年1月)



【第2回】 デジタル時代の制作者のライフイスタイル
2003年1月9日。世界最大の家電見本市「CES」がラスベガスで開催された。パソコンや家電の各メーカーが最新の製品を出展したが、ブロードバンドが急速に普及するなか「デジタル化」された製品群からこの先どんな「デジタル的生活」が見えるか、が焦点となった。アマゾンは開幕前々日の7日から10日までの間、ソニーの安藤国威社長を中心に取材した。(この模様は、 SKYパーフェク-TV749CH『安藤社長のシンフォニア』で2月の一ヶ月間放送される。)

安藤社長は家電メーカーを代表してスピーチし、パソコンやオーディオ、ゲーム、モバイルなどあらゆる機器のネットワークの中心にテレビを置くことを提案、テレビがデジタル時代に生まれ変わることを強調して 話題を集めた。キーワードは「ユビキタス・バリュー・ネットワーク」だという。

安藤社長の「ユビキタス」とは「誰もがいつでもどこからでも情報ネットワークにアクセスできる」意味として語られたのだが、この言葉には他に<あちこちに現れる、遍在する、至る所[広くあちこち]に存在する>という意味もある。
「ユビキタス」のこの意味こそ、私たちソフト制作者の新しいライフスタイルを示唆している、と私は思う。
ブロードバンド時代到来が叫ばれながら新聞報道に現 れるのはもっぱらハードに関するもので、いっこうに 中身の話題は登場しない。ブロードバンドに相応しい ソフト(コンテンツ)を創るクリエーターの在り方に 言及する議論も皆無といっていい。

私は番組制作者として仕事しながら、デジタルの特性を生かした番組作りでは先ず制作者自身のライフスタイルが劇的に変わらなければいけないと予感している。(私自身の希望でもあるのだが。)

これまで私たち制作者は一元的なライフスタイルのなかにいた。恒常的にひとつの制作拠点、あるいはひとつの会社に出勤して番組のかなりの部分を作ってきた。しかし、デジタル時代の番組制作では多元的なライフスタイルが必須となるだろう。なぜならデジタル化によって人々はライフスタイルを変え、これまで私たちが固定的に捉えてきた、家のテレビの前で受動的 に見る「視聴者」という存在はなくなるからだ。パソコンやモバイルを家庭から持ち出し必要な情報や娯楽にお金を払って見るライフスタイルは始まっている。 ならば制作者は日本や世界のあちこちに出かけ、そこに滞在し定点的な視点を発見して記録しパッケージし 送出までする時代を私は待望する。そのとき制作者は その地での生活者であり、撮影や録音の技術者であり、その場所から番組を送る放送者でもあるのだ。

大げさに言えばデジタルの最大の可能性は、産業革命以降の機能分担主義から解放されて、それ以前のダ・ ビンチやガリレオのような全的な人間表現を可能にするマルチな表現者になることなのだと思う。

<ユビキタス>な時代に、私たち制作者の生き方が大きく問われるに違いない。
人生を賭けるに値する、自分自身のテーマを獲得する ことができるかどうか。 デジタル時代のソフトはそこにかかっている。

(2003年2月)



【第3回】「花の都・江戸」
いま『キヤノンスペシャル・未来都市 江戸~時空の花 園~』 (3月23日テレビ朝日夜7時放送)の制作にとりかかっています。 企画の始まりは一枚の屏風絵でした。国立歴史民俗博 物館が所蔵する「江戸図屏風」には明暦の大火で焼失しその後再建されることがなかった当時日本最高層の建築物、江戸城天守閣が描かれています。その天守閣 から北側に目を移すと「御花畠」というのがあります。なにかの植物が植えられ花が咲いている様子です。これは一体なんだろう? この疑問がすべての始まりでした。
さっそく江戸の園芸の研究家に尋ねたところ、その「お花畠」は家康が作ったとされるもので、なんと1万坪とも2万坪ともいわれる広さであったといいます。ますますもって疑問は深まりました。なぜ家康はかくも広大な花畑を作ったのか?

謎はいま、少しづつ解けて来ています。
「御花畠」に咲いていた花の種類、それを作った家康から家光に至る三代の将軍たちの意外な素顔、そして単に愛でるだけではない「花」にこめた大きな意図が見えてきました。
明暦の大火で江戸の街の大半が焦土と化したのをきっかけに幕府は大規模な都市計画を進めていきます。戦国下剋上の戦さの時代から経済の時代へと移行させ、従って「武」の象徴であった天守閣を再建することをせず、都市をいかに活性化させるかに都市づくりの主眼をおいていきます。
江戸城を中心にして大名屋敷群が置かれ、各大名は上 (かみ)・中(なか)・下(しも)と三つの屋敷を構え、それぞれに庭園を作りました。そこに池や林をつくり草花を植えたのです。大名たちは競って園芸に力を入れ、美しい庭園はステータス・シンボルを表すものとなっていきました。これが今に残る六義園や小石川後楽園です。
江戸という街を階層別の面積比率でみると、武家と寺社が全体の60%を占めていますから、江戸の街の大半は緑と花の風景だったといえるでしょう。
そして大名屋敷の庭園に出入りする植木職人を通じて 町方の庶民へと「花」は広まっていき、過熱気味の園芸ブームをまき起こしていきます。駒込近くの染井には当時世界最大の一大園芸センターがあったといいます。花は産業化され、その技術革新の成果は現代には 存在しない花さえ出現させました。

やがて、花が人々の生活になくてはならないものになった決定的な出来事がおこります。
8代将軍・吉宗が江戸の各所に数千本のサクラを植えたのです。
王子・飛鳥山、品川・御殿山、隅田川、小金井はサクラの名所となり、花見は江戸庶民の大事な娯楽となりました。飲んで歌うだけではないさまざまな花見の楽しみ方が工夫され、文化を生み出す社交の場になったのです。
幕末に江戸を訪れた外国人は、花に覆われた江戸の風景に驚いて「世界のどこにもないもっとも美しい都市だ」と言っています。
彼らはそれまで見たことのない花の種子をヨーロッパへ持ち帰り、その後思わぬ展開につながっていきます。

家康に始まった江戸時代は、「花」の260年間でした。
江戸は、まさに「花の都」だったのです。
江戸の街を見てみたくなりませんか?

(2003年3月)



【第4回】テレビは身体的表現
いま、パリ・オペラ座バレエ団が来日、各地で公演をしている。このバレエ団は、ドキュメンタリー映画『エトワール』でとりあげられたのでご存知の人も多いと思う。 パリ・オペラ座は、ナポレオン3世の肝煎りで1875年に建てられ、以来フランス文化の象徴としてありつづけてきた。そしてオペラ座バレエ団も創立400年を越え、いまや世界のバレエ団の最高峰に位置している。私は2年ほど前から、このバレエ団の企画を進めている。「人間はなぜ美しくなりたいのか」、私の興味はそこにある。ここでは美への欲望の強い者だけが生き残る、それが私の仮説である。
団員の数は150名。トップのエトワール(スターの意) は男女7名ずつ、以下カドリーユに至る厳然とした5つの階級に別れ、男性45歳女性40歳で定年とする激しい競争社会である。レッスンは毎日午前10時に始まり、12時から15時までリハーサル、そして夜の公演と、ダンサーたちは毎日をバレエだけに過ごす。「エトワールへの道は地獄の連続」と言われるほどのハードな生活。地位の高いダンサーほど全身の故障と傷にまみれ、筋肉を酷使しながら毎日を送っている。

美しいものへの希求と背中合わせにある彼らの苛酷な 実態を知った時、私は「文化」というもののありようを考えてしまった。ごく自然に、私たちは文化を精神的なありようとしてのみ考えてきた気がする。しかしこのとき初めて、文化というのは、実は想像を絶する肉体訓練によってこそ成立する、きわめて身体的な表現なのだと思い知らされたのである。
アマゾン制作の『芸術に恋して!』最終回はヴァイオリンをテーマにしたものだったが、ヴァイオリンの音は実は楽器から空気中に伝わるものよりも、演奏者自身の鎖骨で振動して響く音の方がはるかに強く、かつノイズ成分が少ないクリアなものだったことがわかった。音楽も文字通りの身体的表現だった。

ひるがえって、私たちが「テレビ文化」とか「文化番組」とか「文化」を口にするとき(もし私たちのテレビが文化だとすれば)、その身体的表現とはなんだろう、と考えた。答えはなかなかむずかしい。ただ、デジタル時代に対応して私たちの肉体的作業は大きくパソコンに依存しつつある。地を這うようにして人間を取材するドキュメンタリーも消えつつある。視聴率が最も重要な目的となって、現場で撮影された森羅万象はより分かりやすくナレーションに置き換えられる。こうして、ふだん制作されるほとんどの番組はよく整理されてはいるが、しかし、現場で捉えた、なんとも名状しがたい、説明不能な人間の根源的な生理、時として物の怪さえ感じさせる「けはい」の表現がとても不得手になっているように思われてならない。
撮影現場は少なくとも人間の五感が発する信号をキャッチする場である。 私はいま、現場感覚を大切にすることが求められていると切実に思う。

4月。私たちは、オペラ座バレエ団のトップスター、マヌエル・ルグリのダンスを撮影する予定でいる。身体的表現の格好のチャンスとして。

(2003年4月)



【第5回】予見
『Dancing for Dollars』(邦題「栄光と現実のはざまで」~ボリショイバレエ団の苦闘)というタイトルのイギリス・チャンネル4制作のドキュメンタリーを見た。
1996年にモスクワのボリショイ・バレエ団のアメリカ、ラスベガス公演の興行的大失敗の顛末を追っている。
私は見終わって、「制作者の予見」ということを考えた。
このドキュメンタリーの作り手は、あらかじめ公演の興業的失敗を確信して撮影を始めたのではないか、と 思った。

主人公はアメリカ人青年エド。
興業の世界では全くの素人である。
以前モスクワで観たボリショイバレエの感動から、このバレエ団の招聘を計画、自らラスベガス公演のプロモーターとなった。
彼のモチベーションは「米露の相互理解と素晴らしい芸術に触れることの意義」だった。善良なアメリカ ン・ドリームといってしまえばそれまでだが、この程度の夢に乗るほどドキュメンタリストは甘くはないだろう。制作者の内なる意図に、この素人プロモーターの失敗ぶりにこそ「真実」が覗けるという予見があったのではないだろうか。

ドキュメンタリーが始まる。 先ずは資金集め。エド自身にその資金はなく、公演を一般のファンドで賄おうと投資家の中心をオクラホマの農民に求めた。だが農民たちのほとんどはバレエというものを見たことがない。スケートのようなものだと思っている。バレエはよく分からないが、公演が成功すれば投資を上回るお金が返ってくる、その期待から一人200ドルたらずのなけなしの投資をしたのである。

公演の劇場として、エドが選んだのは派手なネオンサインが渦巻くラスベガスの中心、アラジンホテルの中のホール。
そこはキャパ7000人のコンベンション・ホールだった。
ラスベガスとバレエを知らない農民とボリショイバレエ。この何とも奇異な取り合わせに、ドキュメンタリーは最初のサスペンスを与えているが、ねらい通りに違いない。
果たして、総勢200人を超えるバレエ団の公演が前日に迫って、オケピットは出来ていない、楽器や衣装も届かない。そして当日になってもオケ用の照明さえ準備できない有り様に団員とのトラブルや不安の声を重ねていく。
と、画面は一転して、かつてのボリショイバレエ団の栄光の記録を挿入、伝説のスターダンサーの証言や華やかな名シーンを紹介し、いま進行している現実とのあまりに大きな落差を強調する。

やっと、どうにか幕が開いて、『白鳥の湖』が上演される。
しかし、数日間の公演で売れているチケットは500枚にすぎない。
一日中電話にしがみつきチケットを売るエドと連日閑散とした客席で踊るダンサーたちの様子がカットバックされる。
救いのない絶望感に、作り手はさらに容赦なく栄光の名シーンをぶつける。

結局公演は失敗に終わって、バレエ団が手にした報酬は結局アドバンスのみにとどまり、ロサンゼルス公演への移動費すらなく、失意のうちにモスクワへ帰っていく。
破産し、莫大な借財を背負ったエドがひとり残るのだが、秀逸なおまけがあった。
なんと、カジノのスロットマシーンで3000ドルを手にしてしまうのだ。
「人生には、神様がくれる残念賞がある」とエドが語って、ドキュメンタリーは終わる。

これほど制作者の意図を強く伝えたドキュメンタリー は久々だった。
たまたま不幸な出来事であったにせよ、作意が勝っていたにせよ、この作品にはドキュメンタリストの確かで冷静な計算があった。
この制作者は明らかにあらかじめの「予見」を持っていたと思う。
予見の通りに展開するドキュメンタリーがドキュメンタリーと言えるかという思いはあるが、いま私は「予見」を持って番組に当たることをあえて選びたい。
「予見」には制作者の人生観や価値観や見識が求められる。
「予見」なしに、対象と向き合うことはできない。これはフィルム・ドキュメンタリーの常識だった。「予見」がない時代は不幸だが「予見」を必要とする時代はもっと不幸だ、と寺山修司なら言うかもしれない。
ビデオによる番組制作を続けて久しいが、ビデオの特性を生かした方法論も失われて久しい。
アマゾンが制作し先頃放送したNHK「テレビ50年ずっ とテレビもっとテレビ」のなかで、藤井潔氏が語った、一回に3分しか撮影できないフィルム・カメラから20分まわせるビデオへの転換期に採った<凝視>という方法論はその意味で示唆的だった。
ハイビジョン時代に入って、私は藤井さんの言葉を 「予見」による凝視と受け取った。

(2003年5月)



【第6回】番組は夢の軌跡を写す。
アマゾンの番組の受賞のお知らせから始めます。
先ずは、「NHK会長賞」です。
昨年夏にNHKが中心になって開催された「大恐竜博」がありました。
アマゾンは展示映像とNHKの地上波、衛星波にわたる5本のスペシャル番組の製作を担当しましたが、このプロジェクト全体に対してNHK会長賞が贈られました。綿密な調査に基づいた取材、撮影、恐竜への新しいアプローチの発見、意表を突いたCG映像とアマゾンにとっても二年に及ぶ大きなプロジェクトでした。
もうひとつは、この春に放送した「キヤノンスペシャル 『未来都市江戸~時空の花園』」が、ATP賞ドキュメンタ リー部門の優秀賞を受賞しました。
江戸という時代を「花」で見る、という視点はこれまでありません。 近年の江戸ブームで多くの研究がなされているとは言え、体系的に研究し著された書物は一冊もありませんでした。 スタッフは文字通り自らの足で歩いてひとつひとつ棒に当たっていったのでした。
しかも、急遽の決定で、製作から放送まで二ヶ月弱で二時間番組を作るという状況のなか、スタッフはリサーチしながら撮影し、撮影しながらリサーチを進める手探り状態の格闘をしながらなんとか撮り終え、完成したのは放送数時間前でした。

長期にわたる番組も短期に作り上げる番組もそれぞれに苦労はあります。
しかし、今回の受賞は「苦労」に対してではありません。 スタッフの「番組への信仰」のようなものが評価されたのだと思います。番組は常に私たちの夢です。如何なる番組も、最初は「面白い番組にしたい」という夢から始まります。その夢を信じ続けること、結局のところ、番組で伝わるのはそのことです。
番組は制作者自身の夢の軌跡を写すもの、と言っていいと思います。

夢を信じる心には、「失敗」という言葉はありません。
テリー・ギリアム監督の映画『ドン・キホーテ』のメイキング・ドキュメンタリー『Lost in La Mancha』を見てそう思いました。
長年のトライを重ねた末、ようやく製作実現にこぎ着けた『ドン・キホーテ』がクランクイン6日目にして頓挫してしまう顛末を追ったドキュメンタリーです。
撮影初日はロケ地であるスペインの砂漠が空軍の戦闘機の訓練地で、ひっきりなしに飛び交う戦闘機の音で同時録音に悩み、2日目は突然の豪雨に襲われて機材や美術セットが濁流に流され、3日目に再開するも砂漠の色が雨のためにすっかり変わってしまってシーンがつながらず撮影不能、そして6日目、ドン・キホーテ役の主役ジャン・ロシュフォールの持病再発で長期入院を余儀なくされる事態に至ってついに映画は製作中止。スタッフのモチベーションの喪失、無駄になった莫大な投資の回収をめぐって保険会社とのやりとりなど、中止後も3週間ギリアム監督を中心に追い続けています。
あまりに切実、同業者として胃が痛くなる2時間でした。それでも時折(絶望的な)笑いさえ起こりながら全身を釘付けにされました。その意味では一級のエンターテインメ ントです。

このドキュメンタリーは一見、一人の人間の夢の崩壊を描く悲劇のように見えます。しかし、私は困難な状況でも黙々と絵コンテを描きつづけるギリアム監督の姿に興味を そそられました。それは絵コンテという「映像の強さ」です。監督が絵コンテを描くシーンが何度となく繰り返されるたびに、映像でモノを考え、映像で自分を表現する、そこでは仕事をすることと夢を見ることは同義であると思わせるのです。
文字や言葉よりはるかに映像はあらゆる現実から解放される可能性を持つと、私は思っています。しかしいま、私たちは本当に映像を信じているだろうか、文字や言葉の力に頼りすぎていないだろうか、映像の中にこそ存在する夢を発見できているだろうか、ギリアム監督に励まされた思いです。
ドキュメンタリーのラストは「COMING SOON」というテ ロップで終わっています。ギリアム監督の夢は生き続けているというメッセージに他なりません。

(2003年6月)



【第7回】夏とはいえど片田舎
「東海道四谷怪談」をテーマにした番組を準備している。
私は、どうしても子供の頃を思い出す。 その昔、日本の映画界には現代のアニメ・モノとかアイドル・モノとかのように「怪談モノ」というジャンルがあって、時代劇をはじめ現代劇やSF調の怪談モノが盛んに作られていた。
怪談モノは、夏休みの頃、必ず映画館にやって来る。 昭和30年代前半に小学生だった私だが子どもだけではなく多くの人が好んで観たのは天知茂が主演する 「四谷怪談」や「牡丹灯籠」、「番町皿屋敷」などの江戸時代の怪談モノだった。人を殺すに至る人間の思いも恐かったが、死んだはずの死人が甦ってこれでもかと手を変え品を変え現れる現世への未練のようなものがなにより恐かった。心臓が破裂するとはまさにこのことで、何日も恐さが残った。恐怖の質が今のものとは違って、物語そのものにある不条理というのか、人間そのもののなかに在って何人も逃れる事ができない因果というのか、サプライズを旨とする現代のホラー映画とはまったく異なった恐怖感がそれらの映画にはあった。それでも次の夏には必ずまた映画館に足を運んだ。
私たちのあの恐怖への熱狂はなんだったのだろう?

当時、映画会社はそれぞれ専属の俳優と監督、スタッフを抱え、独自の路線を敷き競合による共倒れを防いでいた。中川信夫という天才監督の演出力によるものなのか俳優陣の演技力なのか新東宝という会社の経営力なのか分からないが、江戸の怪談モノは新東宝の独壇場で、作品の完成度においても恐さにおいても他社の怪談モノの追随を許さなかったように思う。
その後少し経って新東宝は倒産し、私も夏休みに怪談映画を見る事はなくなった。
それは日本が高度経済成長を迎える時期だった。
江戸の怪談噺にこだわりつづけた新東宝という映画会社が消えたのは、日本人の怪談モノへの熱狂が消えたからに違いない。
なぜ私たちはあれほど熱中し共有した、サーカスの空中ブランコのように生と死が交錯するスペクタクルへの熱狂を捨ててしまったのだろう?
いま私は「四谷怪談」に取り組むことになって、先ずこの疑問を解かなければ先へ進めない気がしている。

さらに昔話をするのをお許し願って、昭和30年代はじめのこと。
小学生の私は毎年の夏休みを青森の海辺の小さな町で 過ごした。
太平洋戦争が終わって10年ほど、大人たちの日常会話にはまだ戦争の話題がのぼっていて、南方で戦死した身内がふと夢枕に現れたといったこともよく耳にした。
クルマが珍しい時代でテレビもまだなかった頃で夜ともなると、いっさいの騒音が消え辺りは森とした静寂に包まれて、聞こえてくるのはゆったりとしたリズムの潮騒の音だけだった。私は布団のなかで、昼間に聞いた戦死した人の話をこっそり袋から取り出すようにして思い出し、あれこれと情景を想像した。
死は子どもにとっては想像できないものだったが、決して遠いものではなく、なにか不思議な物語を残してくれるものとして感じていたように思う。
子どもの私をそんな気にさせたのは、暗闇に響く潮騒のせいだったかもしれない。
そして、子どもも大人も町中のすべての人が潮騒を聞きながらひとつの夜を共有していた時代があったのだと、いまになって思う。
やがてその町にもテレビがやってきて人々は力道山と長嶋茂雄に熱狂し、クルマに乗って買い物をし、結婚式や墓参りにもクルマで出かけた。海にはコンクリートの堤防ができて浜が無くなりあの潮騒は聞こえなくなった。私たちは高度経済成長を熱烈歓迎した。

最近、ロバート・ハリス氏と話す機会があって、彼はこんなことを言った。
「『ニューシネマ・パラダイス』で映画監督として成功したトトが数十年ぶりに故郷を訪ねたとき、なぜあんなにも憂鬱な顔をしているのだろう?」
いま、私たちが共有していると思ったモノは既になく、熱狂の物語も生まれない。
「東海道四谷怪談」を生んだ江戸の人々は何を共有していたのか?
江戸の人々が熱狂する物語はどこから生まれたのか? 子どもに戻って考えてみようと思う。

(2003年7月)



【第8回】神田川
江戸開府400年で「四谷怪談」をテーマにした番組を準備している私は、ある日曜日にアマゾンの戸ノ嶋ディレクターと一緒に神田川に沿って東京を歩いた。

神田川は三鷹市の井ノ頭池に源を発し、三鷹市、武蔵野市、杉並区、中野区、新宿区、豊島区、文京区、千代田区、中央区、台東区を通り隅田川へと注ぐ、ほぼ東京の中心部を横断する全長26キロの自然河川である。
私たちは豊島区・高田の面影橋からスタートした。川の両岸には遊歩道が作られ、桜並木が植えられている。神田川沿いに歩くのは二人とも初めてのことで先ず驚いたのはきれいな水流があることだった。よく見ると川にはコイが泳ぎ、数羽のカモが浮かんでいる。案内板によるとドジョウやボラ、ウグイ、ハゼの類も棲息しているらしいから彼らの餌があるということだ。小さな島状になった石の上にカメが四匹たたずんでいるのには思わず笑ってしまった。
もともと江戸市民の上水を供給した神田川も明治以降戦後の高度経済成長時代に至って下水の排水路と化し、悪臭を放つ都内でも有数の汚れた川となった歴史がある。「神田川」といえば南こうせつとかぐや姫だが、その感傷的世界と汚れた川というイメージの取り合わせにどうしても私は違和感を持ったけれど、なるほどいまの神田川は感傷が入り込んでおかしくない川だった。都市が持つ記憶、というのは面白い。コンクリートで護岸されたとはいえ「水清く流る」現在の神 田川は江戸の懐かしささえ覚える風情を再生している。

1時間ほど歩き、江戸橋にさしかかったとき神田川は一変した。
川が真っ黒になった。川幅は広がって目の前に太い黒いベルトがずっと延びている。濁り澱んで流れも見えない。地図の上に強引に真っ黒な線を引いたように風景が急に暴力的になっている。ここからは川の上を高 速道路が走って空をふさいでいる。この高速をクルマで通ることはたびたびだが、この下を神田川が流れている意識は私にはほとんどなかったことに気がついた。明治以降の私たちに川からの目線で町を見ようとする姿勢が失われてしまったのかもしれないと思った。
さらに飯田橋まで黒い川を辿って来て、この死んだ様な川を見せつけられた私たちは歩く気力を無くしかけ、気分転換にビールを飲んだ。やけ酒の気分に似ていた。

神田川はここから東へ向きを変え、水道橋、お茶の水、秋葉原、浅草橋へと流れる。その間、黒いベルトがつづく。私たちはショートカットして地下鉄で浅草橋へ行き、いよいよ隅田川に合流するのを見た。
ちょっと感動的だった。隅田川はそれまでの私たちの気分などいとも簡単に呑み込むように堂々と流れていた。ひっきりなしに屋形船が往来し、ねじり鉢巻の船頭さんが胸を張るようにして舟を走らせている。川面には辺りの景色が映り、正面には高層ビル群が立ち上がっている。美しい、とさえ思った。

両国橋はその威風のゆえか、なぜか向こう岸に行きたい気分にさせる。
赤穂47士が本所・吉良邸で討ち入りを果たし高輪・ 泉岳寺へと、死出の旅に向かって渡ったのもこの両国橋だった。「両国」橋には武蔵国と上総国を結ぶという意味があるが、「この世」と「あの世」の境界に架かる橋だとも江戸の人々は考えていたらしい。
私たちは、両国橋を渡って墨田区へ入った。隅田川沿いの道はホームレスの人たちが軒を連ねている。読書をしたり野球中継のラジオを聞いているホームレスもいて、隅田川が庭とあってなにかのんびりした雰囲気 が漂っている。
隅田川はさらに南に下ってやがて東西に流れる小名木川と交わる。小名木川沿いに進むとさすがに人気はなく両岸に工場とマンションが立ち並ぶ。30分ほど歩いてこんどは南北に流れる横十間川と交差する。
横十間川沿いの小さな公園が私たちの終点だった。近くの子供たちの遊ぶ声が聞こえた。そこは江東区扇橋3丁目である。江戸の頃は「隠亡堀」と呼ばれた一帯だった。

ところで、この日私たちが歩いたルートは「四谷怪談」のお岩の死体が戸板に打ちつけられて、雑司ヶ谷 四谷から神田川を流れ、隅田川に合流し、小名木川に入り、隠亡堀に流れ着く経路だったのだ。 お岩の亡霊は、いまの東京をどんな思いで見ているのだろう。

(2003年8月)



【第9回】魔術師
この夏、私は二人の魔術師と出会った。
一人は、ローラン・プティ。"ダンスの魔術師"と呼ばれる世界的振付家である。プティさんは79歳、1924年パリでカフェを営む両親の子として生まれ、幼い頃からダンスが好きで10歳で オペラ座バレエ学校に入学、その後オペラ座バレエ団に入団、19歳の時には振り付けも手がけ、25歳で『カ ルメン』を発表するや、一夜にしてヨーロッパ中にその名を知られることになる。1949年のことだ。以来、ハリウッド映画をはじめパリ・オペラ座、ミラノ・スカラ座、モスクワ・ボリショイ劇場など世界の桧舞台 の看板となる仕事をつづけている。

8月、私たちは幸運にも、彼がダンスを創り上げていく過程を撮影する機会を得た。
昨年の秋、私はパリ・オペラ座の客席でプティさんの『アルルの女』を見ていた。観客としては充分に堪能し興奮しながら、同時に、ダンスの圧倒的な躍動を映像で伝えることは不可能ではないだろうかという敗北感に襲われていた。それから一年後の今回、その「肉体」の映像化へのチャレンジは、私の復讐戦でもあった。

今回のメインテーマは<ファンキー>というもので、ローラン・プティのなかにファンキーを発見することだったが、私の関心事はもうひとつ、"ダンスの魔術師"の「魔術」だった。彼の魔術をどうしても見たい と思っていた。
撮影の日がやってきて私たちは、『デューク・エリントン バレエ』公演のなかの一曲 「AFROBOSSA」の振り付けの様子を見せてもらうことになった。全くの白紙の状態での稽古は決して関係者以外には見せないとされているが、特別に最少人数のスタッフで撮影に臨んだ。
まずプティさんが動きを指示する、ダンサーが動く。 プティさんはじっと見て、やがて止める。それからダンサーのところに行ってひとことふたこと伝える、あるいは一緒に動いてかたちを作っていく。そして同じところを繰り返す、とそこまでなら、きっとどの振り付け師も同じだろう。
もちろん、ローラン・プティのステージは素晴らしい。彼の手になる作品を見た人なら誰もが、人間の肉体をこれほどまでに美しく見せるかと驚くだろう。
後日に「AFROBOSSA」の本番を見たとき、稽古を見ていた者にさへ本番の美しさを驚かせるという魔術はたしかにあった。
しかし、私は稽古の場で彼の「魔術」のありかを必死に探そうとした、が、かなわなかった。
二回目に稽古場を訪ねたとき、ダンスはほぼ出来上がっていて、プティさんはダンサーの動きを見ながら、時に一緒にリズムを刻み、ダンサーにブラボーをかけるという具合で、結局、この日も私は彼の「魔術」を見つけられずに終わった。

しかし、魔術はあったのだった。私が見過ごしていただけだった。

「魔術」なんて滅多に見せてはくれないのだろうか?、と自分勝手な失望感にとらわれかかっているとき、撮影したテープを見て私はあっと唸った。
撮影時、離れた距離にいた私の耳には聞こえなかったプティさんの声がマイクで録音されている。動きの一連を作っている最中に彼がダンサーに何ごとか話しているシーンである。女性ダンサーが男性ダンサーに肩車されている状態で「ここから、彼女がどうやって降りるかが考えものだ」と巨匠は悩んでいる。
困ったプティさんは、音楽の終わり方から逆算してその解決策を編み出そうとしたのだろう、「曲はあとどのくらい残ってる?」と助手に尋ねた。しかし、それがプティさんの予想を上回って1分半もあると知って、「1分半も!・・さて・・どうしたらいいかわからないよ」とつぶやいている。だがそのとき、悩みがますます大きくなったように見えたそのときに、魔術は施されていたのだった。
「わからないよ」と言いながらプティさんの手は女性ダンサーの手首を包むように握っている。最初、私にはそれがごく自然な仕草にしか見えなかったのだが、違っていた。驚いたことに、プティさんがその仕草をした瞬間から、それまで複雑に絡み合った紐がすっとほどけていくように、ダンスのかたちがきれいに決まり出していったのだ。 なんとも不思議でならなかった。繰り返しテープを見ても、プティさんが彼女の手首を握ることは彼女を肩車から降ろす解決策のようには見えないのだ。なのに、いや、だからこそ彼のこの仕草は、状況を一転させ、鮮やかにするりと抜け出してみせる、魔法の手にちがいなかった。
プティさんの手から相手の手に電気が流れ、五感から 五感に伝わる特殊な信号でも送られたのだろうか。
やはり、ローラン・プティは魔術師だった。
稽古の直後、まだ魔術に気がついていない私はインタビューしている。
プティさんは答えた。「ダンスは宗教であり、愛であり、交流の技であり、つまり、ダンス自体が魔術なんだ」

もうひとり、この夏私が出会った魔術師は、唐十郎さんだ。 11月にNHKハイビジョンで放送する「四谷怪談」をテーマにした番組の主人公を引き受けていただいた。
唐さんの魔術師ぶりは次回にご紹介したいと思う。

(2003年9月)



【第10回】唐十郎の凄腕
唐十郎さんと仕事をご一緒させていただいている。
12月4日に放送されるNHKハイビジョン・スペシ ャル<大江戸繁盛記『四谷怪談~恐怖という名の報酬 ~(仮題)』>でご出演を願った。
唐さんは番組の中で、唐さんご自身であると同時に鶴屋南北『東海道四谷怪談』の主人公、民谷伊右衛門であり、戦後を生きた日本人としての「私」でもあるという3つの役割を担っている。
伊右衛門役と「私」役は私たちが用意した設定で、俳優・唐十郎が江戸と現代の東京を縦横に行き来することでふたつの時代を重ね合わせようというのが演出のねらいである。この2つの役割は唐さんの役者としての領域にあり、さらにそこにもうひとつ唐さん自身が加わるという仕掛け。番組が面白くなるかどうかは、唐さんの3つの役割をどう組み合わせ、どう融合させて虚実の皮膜に存在させていくか、にかかっていると私は思っていた。

撮影現場では、そうした思いの私と唐さんとのキャッチボールが続いた。それは興奮に満ちたキャッチボールだった。
撮影初日、「私」役の唐さんが豊島区高田の面影橋に立って、伊右衛門が妻・お岩の死体を神田川に流すという『東海道四谷怪談』の重要な場面について語るシーンから始まった。
私が用意したこのシーンの台本には、「伊右衛門自身がお岩を死に追いやっておきながら、どこかでは成仏して欲しいという願いがあったのだろうか?」という伊右衛門自身の矛盾を暗示するくだりがあった。それは死者が川を流れてあの世に行く、という精霊流しにも見られる伝統的な死生観が殺人者・伊右衛門にもにあったのではないかと思ったからだ。
本番、唐さんはすかさず返してきた。
「そうはいかないね、川は澄明な記憶の回路でもあるけど、ときどき曲がりくねって蛇のようにもなる。さらにはアタマとシッポがつながって記憶の回路にしめつけられることになる」
伊右衛門がそれ以降お岩の亡霊につきまとわれ、自分の心のなかに棲みついて離れず、ついには身を滅ぼしてしまう成りゆきを、唐さんは川を蛇と言い換えて表現したのだった。
唐さんは「私」の中に「唐十郎」を見事に滑り込ませ、しかも思いもつかない表現で伊右衛門の心の内に迫っている。私は「OK!」と声をかけながら、3役の重構造が撮影最初の段階でクリアされたと直感した。

飯田橋付近で、突然、唐さんは台本にはないアドリブでシーンを展開した。神田川はここでトンネルから流れ込む水路と合流し、さらにまた別のトンネルへと分岐していく。唐さんは言った。 「ここは、見える水と見えない水のジャンクション。水が行き場に迷っている、こわい場所だ。自分が水だったらどっちへ行こうか?」
もはや、「私」は唐十郎の手によって成長し、台本を超えて一人歩きを始めている。

この日の撮影の最後は、江東区扇橋。戸板にくくりつけられたお岩の死体が流れ着き、伊右衛門を襲う 『四谷怪談「隠亡堀」』の場面となった場所である。
鶴屋南北はなぜこの神田川を舞台に選んだのかという命題に、唐さんは南北張りの凄腕を見せた。唐さんのここでの語りは是非番組をご覧いただきたい。私は圧倒的されて、「OK!」の代わりに「凄い!」と叫んでしまった。

(2003年11月)
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